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一週遅れの映画評:『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』俺の屍を越えてゆけ

 なるべく毎週月曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』です。

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 この『仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション』には三人の【1号】が登場する。
 一人は令和の1号ライダーである或人が変身した「仮面ライダー001」
 一人は或人の父親を模したヒューマギアが変身した「仮面ライダー1型」
 一人は仮面ライダー1号のアナザーライダーである「アナザー1号」
 
 それぞれの【1号】が次の世代を担うことを目的に争う、まさに「ファースト・ジェネレーション」というタイトルに相違ない展開が繰り広げられる。
 
 本作ではクライマックスに「001」と「1型」、そして前作の「ジオウ」と「アナザー1号」との対決という2つの山場が呼応する形で描かれる。
 
 全ての仮面ライダーの歴史を消滅させ、唯一無二の「仮面ライダー」になることを目論むアナザー1号。それに対抗するのは最後の平成ライダーであるジオウだ。それは始祖と歴史の戦いであり、始まりと終わりのせめぎ合いでもある。
 いままで数多くの「仮面ライダー」という存在が生まれ終わっていった、それは一番最初に生まれた『仮面ライダー』という存在がいかに素晴らしく強靭なものだったか。彼がいなくてはこの長い歴史は生まれなかったという畏敬の念を抱かずにはいられない。
 それでも歴史を作るのは一人だけの力では不可能だ、そのあとに続く他の「仮面ライダー」たちがいたからこそ、彼の偉大さを語り継ぐことができる。
 アナザー1号という存在は自分だけがライダーであれば良いと願いながらも、決して「そうはなれない」存在だ。1号だけで仮面ライダーが終わっていたのなら「自分だけがライダーでありたい」という願望すら生まれることは無いからだ。
 そしてなにより仮面ライダーが一人しかいないのなら「1号」という区分すら必要としないはず。
 だからアナザー1号は最初から矛盾を抱えた存在であり、1号が「唯一でありたい」と願えば願うほど「仮面ライダーとは唯一ではない」ことを証明していってしまう。
 そういった存在であるアナザー1号を「歴史」の集合体であるジオウが「このライダーの終わり」と「平成というジェネレーションの終わり」を重ねる形で勝利するのは、「始まりがあれば終わりがある」という意味において「始まりの1号と終わりのジオウ」として、ジオウでなければ迎えることのできない決着であった。
 
 ジオウが「歴史の強さ」を武器に勝利する一方で、1型と001の戦いは「歴史を乗り越える」ものだ。
 父、というわかりやすい血の歴史をまとった1型に対する令和の1号である001の戦い。それはアナザー1号が「歴史の否定」を願ったのとは似て非なるものだ、001は過去を否定せず自分が連綿と続く伝説のなかにいることを認め、だからこそ「歴史を紡いでいくため」に1型に勝利しようとする。
 同じものや弱いものでは「歴史」を繋げて続かせることなどできない、新しいライダーは常に古いライダーを越えていかなければならないのだ。
 それが朴訥で素朴な願いだということはわかっている。「新しいライダーは古いライダーよりも、絶対に良い」というのが理想ではあるけど難しいことを(凸凹で瞬間瞬間を必死で生きた「平成」を見届けた私たちは特に)知っている。
 けれども、たとえどんなに困難でも「理想」を仮面ライダーが叫ばなくて、誰が口にすることができるというのだ!
 
 新しい時代のはじまりとして、その意志を見せた『ゼロワン』は間違いなく「ファースト・ジェネレーション」を担う仮面ライダーなのである。

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 この話をしたツイキャスはこちらの16分ぐらいからです。


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