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一週遅れの映画評:『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』本当にマリオ、プレイしたことあんの?

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』です。

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 さて、これは困った。困ったぞ……とここ一週間ずーーーっと思ってるんですよ。
 
 まぁこれは悪いことなんですけど、どうしてもこうやって毎週映画の話をするぞ! と思ってると見る前から勝手に身構えてしまうわけですよ。つまり「この作品はこんな感じだろうから、ま~大体こういう映画評になるんだろうなぁ」って。
 ただその事前に想定している通りになることってあんま無いわけ。そこらへんは良くも悪くもではあるんですが、それでも「やっぱ観ずに作品を語ることなんてできないよねぇ」って毎回強く思うし、事前の決め打ち通りにいかないことで「私はちゃんと作品と向き合えてるな」って安心したりもするわけですよ。
 
 でね、まぁまぁまぁ今回の『マリオ』はもう至るところでみんな自由に語ってるわけじゃないwそっから見えてくる今回の映画評(仮)は、「たぶん”てへへ。ゲームが好きすぎて、その思い出語りで8割いちゃったw”みたいな感じかなぁ」だったわけさ。
 んで、見た結果「そもそもすっげーダメな映画なんですけど……」っていう。それと同時に「え? 褒めてる人って本当に、本当に”マリオ”をプレイしたことあんの?」と思っちゃうんです。
 
 私は1982年生まれで、記憶にちゃんとある最初にプレイしたのはファミコンの『マリオ3』ですよ。そっから『スーパーマリオブラザーズ』も『マリオブラザーズ』もさかのぼってプレイしているわけさ。そして小2のときにスーパーファミコンが発売されて、ローンチタイトルの『スーパーマリオワールド』と『F-ZERO』をもう指から血がでるくらいやったわけですよ。
 で、スーファミのマリオをはじめていきなりびっくりするわけ。「最初から道が2手に別れとる!」って。『マリオ3』からはじまったすごろくみたいなワールドマップ形式なんだけど、最初のヨースター島の「1-1」と「1-2」どっちにもいきなり行けることに驚き、そして「1-1」の先にはでっかい黄色スイッチがあって、それを押すと点線ブロックが黄色い「!」マークのブロックに変わる……スピンジャンプとかいう新しいジャンプも増えてるし、よよよヨッシー!? こいつ乗れるの!? みたいになったり……こうやって逐一話したら無限に時間があっても足りないから、全部は語れないけどさ。スーファミで使えるようになった「拡大、縮小、回転」もばっちり(だけどゲームのテンポを崩さないように)配置されていて。スターロードを抜けると「かくしコース」っていうめちゃくちゃ難易度の高いステージが出てきて、それも全部クリアすると「裏マリオ」ってモードになったりとかさ。
 それでね、もちろん内容は違うけど『マリオ64』も『サンシャイン』も『ギャラクシー』『3Dランド』『オデッセイ』にも全部そういう「今度の”マリオ”はこうなんだ!」って驚きがあったと思うんです。あ、『ペーパー』も『マリオRPG』も忘れてないからね!
 
 マリオって任天堂を代表するタイトルで、特に任天堂から新しいハードが出たときにローンチタイトルとして同時発売されるものが多いわけですよ。それって何を意味するかっていうと「この新ハードでは、こういうことが出来るようになりました!!」っていう名刺代わりであり、同時に新しいハードの可能性を提示する鏑矢であるわけです。
 つまりね、つまり私は新しい『マリオ』と出会うたびにまったく新しい体験と興奮をさせて貰ってる。私にとって『マリオ』はいつだって「これまで見たことのない、新しいもの」としてあらわれてくるものなんです。
 
 ここまで言えば、なんで私がこの映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が「ダメじゃん」って思ったかわかるでしょ?
 すごく原作のゲームを思わせる動きとキャラクター、大量に飛んでるキラーを踏みつけつつ足場にして跳んでいく、3Dだった映像が2Dライクの横スクロールを思わせる画面に切り替わる、カートに乗って走り回り(きっちり「あのドラフト」も演出される)、細かいネタも拾ってくる……あげて行けばキリがないし、間違いなく見落としだってあると思う。
 すごくすごく、すっごく丁寧に作られてると思う。そこに「欠点は無い」って言い切っていい、それは絶対にそう。
 そうなんだけど、それって全部「ゲームで見たことある」、もっと言えば「ゲームでやったことがある」ものなのよ! そこには新しいものと出会う喜びが、全然無いの!
 あのねこれを見て「そうそう、マリオってこういう感じだよね」って思うのは当然なんですよ。だって過去にあった『マリオ』がそこにそのままあるんだから。でも私にとって『マリオ』が持ってる一番の特徴は「新しい可能性を見せてくれるもの」なわけ。
 
 だから「そうそう、こういう感じ」っていうのは、私にしてみれば『マリオ』から「もっとも遠いもの」であるのよ。表層だけは確かに『マリオ』そのものだと思う、だけどその奥にある作品の在りようは「こんなのちっとも『マリオ』じゃねーよ!」なんです。
 だからもっかい聞くよ? 「褒めてる人って本当に、本当に”マリオ”をプレイしたことあんの?
 
 あのですね、いわゆる「普通の視聴者」と、いわゆる「批評家」との間で映画の評価が乖離することって時々ありますよね。私は何をもって「批評家」とするのかよくわかってないですけど、自覚的にはかなり「批評家」寄りの感覚で作品を見てると思っています。
 それで、そういう評価の乖離がなんで起きるかって言うと、それは作品が与える意味や価値の場所が違うから……だと考えているんです。
 
 えっとね、先に言っておくとこれは「どっちが正しい」って話じゃあないですからね? 私はさっき言った通り「批評家」寄りだから、そっちの肩を持つように聞こえるだろうけど、いまから言うことは「評価軸が違う」ってことだけで、良い悪い/正しい間違ってるということでは無いよ。とまずしっかり前置きしておきます。
 いま見た映画が、この瞬間「楽しかったな、面白かったな」って思えたら100点! とはならないんですよ、どうしたって。そりゃあ見て「楽しい面白い」に越したことは無いです。でもそれってそこまで大事なことではないって考えちゃう。
 じゃあ何が大事なの? っていうと「この作品が映画って文化にどう貢献してるのか?」なんですよね。貢献って言うとちょっとアレだから、言い直すと「映画の可能性を広げたか?」を一番重要な評価軸にしてる。それって別に「時代を変えるような名作じゃないと意味がない!」なんて大層なコトじゃあなくて、「この表現って新しいよね」「珍しいテーマを上手く扱ってるなぁ」「なるほどー、そういう切り取り方してくるかー」ぐらいのもんで良い……っていうかどこかに1つとか2つ、そういった要素があれば「十分評価に値するんじゃないか?」って思える。
 どうしてそれを大事にするかっていうと「次に生まれる作品が、それを踏まえて新しいものを描ける(可能性がある)」からなんですよね。映画って文化を先に進めるために、ほんのちょっとでも新しい場所へ踏み込んでいくこと。それができてるか、できてないかが評価対象になっている。
 
 だから「批評家はポリコレを扱ってないと評価しない!」っていうのはちょっと違っていて、これまで映画って文化はそういうポリコレ的な面が弱かったし問題も抱えていた。だから「ポリコレに即した表現に挑戦しているね」「演者と役の社会背景の乖離をテーマにしてるなぁ」「なるほど、肉体と精神のギャップをホラー的な呪いとして解釈したのかー」っていう風に、未発達の分野だったから「可能性を広げる」題材が実際多かった。だからポリコレを取り入れると批評家から評判が良く見えるし、実際そうだった一面もある。
 そして未発達だったから、上手くできていない映画だって当然あるんですよ。でもそこの挑戦を評価したいし「これを踏まえて次どうするか?」が重要なんだから「失敗してるし面白くないけど、評価に値する」ってことは十分起こりうることなんですよね。
 
 そこでね「映画の可能性とかどうでもいい。私はいまこの瞬間楽しいのが正義なんだ!」って主張はあると思う。あると思うけど、それじゃあダメなんです
 だっていまあなたが「楽しい、面白い」と思った作品って、そうやって過去に作られた映画がちょっとづつ「映画の可能性」を広げていった結果、いまここに生まれているんですから。みんなが「いま面白いのが全て」って考えてたら、技術だって脚本だって編集だってありとあらゆる全部が稚拙なまま発展しないわけですから。ちょっとでもこれまでの作品より良いものを作ろうって挑戦が、いま「面白い」と感じられる作品に繋がっているんですよ。
 例えば異なる種族同士がお互いを理解しあって仲間になる物語を「アニメーションで描かれた動物たち」を主人公にすることで、見た目の違いや能力の違いを抽象化しつつ、それを乗り越える困難と感動をテーマにした『アイス・エイジ』の挑戦が、イルミネーション・スタジオが作られる(ひいてはあなたがいま面白いと思った『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』が作られる)ことに継がっているんですから。
 
 もちろん当たり前だけど「面白い」と「挑戦している」が両立している(本当はもうひとつめちゃくちゃ大事なものがあるんだけど、それは後で話すね)作品がいいですよ。そしてそれに成功しているものだって沢山ある。
 で。話を『マリオ』に戻すと、この作品がなにか映画の可能性を広げたか? って考えたとき……残念だけどそれがあまりにも弱い。そしてさっきも言ったように、私にとって『マリオ』が持ってる一番の特徴は「新しい可能性を見せてくれるもの」……というか任天堂ってめちゃくちゃチャレンジングな会社で、ガンガン信じられない勢いで「ゲームの可能性」を広げてる代表じゃないですか! いまゲームという文化が、こんなに広く深いものになってるのは任天堂とSEGAがいたからでしょ!? ごめん! ここでSEGAを無視することは私にはできないからねじ込んだ!!
 そんな「ゲームの可能性」を追い求めている任天堂が、マリオが。こんなにも映画という文化に貢献しない作品を作って許されるのか? 正直に言えば、見終わったところで私は「映画を舐めてんのか?」って憤ってましたからね。
 面白いかもしれん、確かに面白いって思った人は多いでしょうよ。別にそれを否定するつもりはない。だけど、だけど私は、私の評価として「これはダメな映画です」って自信を持って言いますよ! 少なくともゲーム制作で見せている「挑戦する姿勢」がまったく無かった。これを評価することは、私にはできない。できません
 
 ……ただなぁ。さっき言った「もうひとつのめちゃくちゃ大事なもの」って、有り体に言ってしまえば「興行収入」なんですよ。お金は大事です、それは「次の作品を作る」ために絶対必要なもので。だから稼いだ作品はそれだけで「偉い」んです、映画『鬼滅』だって『君の名は。』だって、爆発的に稼いだことはもう間違いない事実で、そしてその点において『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』は確かにすごい作品ではあるんです。
 面白いことだって大事だし、挑戦があることだって大事だし、興行収入だって大事なんです。全部を満たす作品が最高なのは、わざわざ言うまでもないことで、ただそんな作品ばっかりじゃない。そのなかで「何に一番、重きを置くか?」ってのが、やっぱり人それぞれなんです
 
 だから私はこうやって、「私」として誠実に正直に作品と向き合いました。みなさんもそれぞれの思うところを、それぞれに語って欲しいと、そう祈っています。
 そして誰もがそういう祈りを持っていると思ってます。
 
 Thank you for p"r"aying !

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 次回は『EO』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの11分ぐらいからです。


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