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一週遅れの映画評:『花束みたいな恋をした』固有名の花にうずもれて。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『花束みたいな恋をした』です。

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 あの、先に言っちゃうと、これ「映画としてはそんな面白くはない」です。一組の男女が22歳で出会って26歳で別れるまでの話で、まぁ物語としては別段どうということもないわけ。
 それでも、それでもね全然他人事にできないっていうか「あー……わかるぅ」って言葉しか出てこないのよ。だからたぶんこの作品のことはちょいちょい思い出すと思う。「別に面白くなかったけど、そうだよなぁ、そういう風だよなぁ」って温度で。
 
 主人公たち男女が両方ともサブカルなのよ。オタクではなくサブカル、それも面倒くさいタイプじゃなくて爽やかカジュアル系の。
 その出会いっていうのがひょんなことから同時に終電を逃してしまって、始発まで時間を潰さないといけない。ほとんど面識のない相手だけど朝まで時間潰せればいいし、袖すり合うのも多少の縁って感じで喫茶店とバーの中間みたいな店に行くのね。そこにたまたま押井守がいて……あのマジの押井監督ね、本物の。それで二人して「やべぇ神がいる」とかいって盛り上がって。
 でそこから居酒屋に河岸を変えて、こんどはいまカバンに入ってる本を「え、いまなに読んでます?」みたいなこと言って交換して「あー、これいいですよね!」「私もこの作者さん好きです」とか言い合って、そのうち舞城王太郎とか、穂村弘、今村夏子、長嶋有みたいにガンガン好きな作家の名前を上げていって。それとか「最近始まったゴールデンカムイってわかります?」「あれめっちゃ面白い!」とか盛り上がったり、ふたりとも「天竺鼠の単独ライブ、チケット取ったのに行けなかった」っていう共通点があることでキャッキャしたり。
 そんで今度は男のほうが自分の撮った写真見せだして、それが全部ガスタンク、あのでっかくて丸いやつね、ガスタンクの写真で、それで3時間ちょっとある「ガスタンク」っていうガスタンクが映ってるだけの映像作品作ったみたいな話もして、女は女で「今度やるミイラ展っていうのにめちゃくちゃ行きたい」って話をしてたり。
 
 まぁそれで数回デートして付き合いだして同棲はじめたりするんだけど、多摩川がベランダから見える駅まで徒歩30分の物件選んだり、老夫婦がやってるパン屋の焼きそばパンが超うまい!ってはしゃいだり、二人で一緒に市川春子の『宝石の国』読んで泣いたり。
 
 ただ大学卒業してフリーター続けるわけにもいかなくて就職するわけよ、そうすると男の方が「一生懸命働く」ことに意義を見いだしてしまう。本当はそれを本職にしたいと言っていたイラストも書かなくなり、新作映画も見に行かない、女がずっと楽しみにしていた舞台も忘れている。本屋に行ったら自己啓発系のビジネス書を選んでいたり。
 そういうところですれ違っていくうちに、別れがくるんですけど……ね、話としては別に面白くないでしょ?
 
 で、その変化をあらわすものとして、女が就活で圧迫面接を受けるんだけど、その話を聞いた男が「そんなことするヤツなんて今村夏子の『ピクニック』読んでも、なにも感じないヤツだ!そんなの相手にして傷つくことはない」みたいに憤るの。
 後半、労働に生活の比重が多くなった男が取引先のおっさんに怒鳴られて謝ってそれが仕事するってことだ、って言うのに対し、こんどは女のほうが「そんなおっさん、きっと今村夏子の『ピクニック』読んでも、なにも感じない人だよ!」って言うんだけど、それに大して男が「俺ももう何も感じないかもしれない」って言うのね。
 まぁ作品としてはあまりにもわかりやすい対比ですよ、世間の強い方に細々と抵抗していた「サブカル」が、そうやって社会の側に取り込まれていって、いつしか「文化」を手離してしまうって構造。
 
 ここまで話しててわかると思うんだけど、この作品めっちゃくちゃ「固有名詞」が出てくるの。普通の映画だったら考えられないくらい大量の人名、作品名が列挙されるのね。
 つまりこれって「人格はどのように規定されるか?」って話なんですよ。
 
 「この作品が好き」「この作者が好き」「こういう風景が好き」「こんな本を買ってる」……それって一つ一つはただの事象なんだけど、それがいくつもいくつも重なることで「そういう人」っていうシルエットが浮かび上がってくる。結局そこには中心となる個性なんてなくて、既存のものの組み合わせによって組み立てられた人物”像”みたいなものしかない。
 そしてそれらの輪郭を作っている外側の事象が自分と共通していて、だから相手の存在に愛着を覚えて好きになっていく。私たちは「人」を好きになっているんじゃなくて、その外側にある形成している固有名詞の複合体として相手を見ていて、そのパッチワークをでできているものを好きになっている。
 
 いやもうこれ本当に自分の恋愛をめちゃくちゃ思い出す。っていうか恋愛だけじゃなくて友人関係も……特に最近では言わなくなったけど(というか今では伝染病のイメージしかないけど)Twitterとかで「クラスタ」って言ってたじゃん、あるいは腐女子がTwitterのアカウントをハマっている作品ごとに分けて作ったりしてるのって、もう完全にこれなわけですよ。
 
 私はたぶん元がサブカル生まれだからもあって、オタクとサブカルは本来同じものだと思ってるのね。それって人じゃなくて作品あるいは事象がまずあって、それを介して「人」とコミュニケートするっていう行動原理がある。それが共通してるから私にとっては同じものなんだけど。
 だからこの作品で描かれた恋愛ってものすごくそれなわけさ。根本的に「人格なんてものは無い」って思想からはじまっていて、でもその周囲には何か人の形を作ろうとする事象の堆積がある。私たちはそれを介してしか人間を見ることができないし、それに恋をする。
 
 いやもうね、これは圧倒的に正しいのよ。私の対人把握って完全にそれでしかない、だから最初に言ったように「全然他人事じゃない」のね。そしてそれが当たり前すぎて、何度も自分にも他人にも起きた恋の始まりと終わり過ぎてまぁやっぱ話としては退屈っていう。
 
 ただこのタイトル。『花束みたいな恋をした』がそういった意味ですごーく良くてね。
 花束って花一輪じゃ形成できないじゃん?何本もの花が集まって「花束」になる。じゃあ「花束の中心ってなに?」って聞かれても答えられない。「花」っていう事象の堆積でしか私たちは「花束」を認知することができない。
 だからこの恋は、そうやって事象の積み重ねでした相手を捉えられない私たちの精一杯やりとげたもので、それでもひとつづつそこにあった「花」が抜け落ちていって、「花束」という形が保てなくなったとき、この恋は終わりを告げる……そんな「花束みたいな恋」なのでしょうね。

 
 そういう感じ。だからこれ本当はサブカルとかオタクの人に見て欲しいんだけど……宣伝がさ、いかにもそういう人たちから遠いじゃない?それがね~一番残念かな。面白くはなかった、でも色んな事を思い出すし、これから先も思い出すんだろうなって映画でした。

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 次回は『哀愁しんでれら』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの15分ぐらいからです。

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