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一週遅れの映画評:『王様戦隊キングオージャー アドベンチャー・ヘブン/仮面ライダーギーツ 4人のエースと黒狐』再編成と逆照射

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『王様戦隊キングオージャー アドベンチャー・ヘブン/仮面ライダーギーツ 4人のエースと黒狐』です。

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 ライダー、戦隊だけじゃなくてプリキュアもそうなんですけど、ニチアサの劇場版(特に夏秋公開のもの)は大別して「本編(テレビ放映)のテーマを再編成したもの」か「本編ではできない逆のテーマを扱うもの」になると思うんですよね。
それで今回、『キングオージャー』は「テーマ再編成」で『ギーツ』は「テーマ逆照射」になっていて、それが両方ともキレイに仕上がっていて実に良かったです。
 というのも『キングオージャー』は割と本編がごちゃごちゃしていて、特にギラが死んだことになっている期間がけっこうあったためにそこでの語りがちょっと弱くなっている。だからここでしっかりと「こういう話ですよ」って見せるのはすごく意義があることだと思うんです。
一方で『ギーツ』は終盤に向けて、こう各々の立場や願いが一点にグゥーと集まってきている段階に入っていて。ここで別の側面から作品を照らすことって、本編に深みを与えてくれるわけです。これがね両作品とも上手く機能していましたね

 まずは『キングオージャー』からなんですけど、シュゴッタムの王にギラが就く。その戴冠式にはひとつ儀式があって、シュゴッタムの新しい王は黄泉の国へ行って、シュゴッタム初代国王から認められなくてはならない。
 で、まぁ黄泉の国へ行って初代国王のに会うんだけど、そこで初代国王は「自分がギラの代わりに現世へ戻り、国民を導いてバグナラクと戦う」って言うわけですよね。つまりギラには死んでもらった上で、過去に世界を救った実績のある自分が生き返ると。そして国民を支配することで、代わりに繁栄を約束する……そういう話になっている。
 
 ここで重要なのが本編であった、先代シュゴッタム国王ラクレスとギラとのやり取りなんですよ。ラクレスは「国民は道具だ!」って言い放つ、これってまぁ国民の意志とか権利を無視している酷さが当然あるんだけど、一方で「道具を使う者には責任がある」という面もある。それは「キングオージャー」ロボの主導権をラクレスとギラで争っていたことにも繋がるわけですけど。
それに対してギラは「誰もが小さな国の王様だ!」、つまりは自分のことは自分で決める権利がある、という立場で対立している。

 で、初代国王は? っていうと「自分が国民を支配して繫栄を約束する」だから、ほぼラクレス王と同じ主張になってる、実際これがシュゴッタム王の戴冠にかかる儀式だということは、ラクレス王だってこの儀式をやってるわけで。そこからも初代国王とラクレスが思想的に近いんじゃないかな、ってことが見えてくる。
だからギラは当たり前だけどそれに反発するわけです。で、そのところから本編ではちょっとボヤてしまってる部分がすごくクリアになるんですよ。

 それはギラが「邪悪の王」って部分。実際本編ではことあるごとに「俺は邪悪の王!」とか言ってるけど、どこかどう邪悪なのか? ってきちんと語られていない。まぁ「安定しているラクレス王統治に反旗を翻すためのポーズかな」程度の印象に収まってしまってる。
 だけど今回の映画で初代国王は「繫栄を約束する」みたいなことをしっかり語ってるわけで、そんな相手にNoを突き付けるってある意味「国民の繫栄を約束はできない」ってことでもあるわけですよ。
これっていわゆる「大きな政府、小さな政府」という話に近くて、保障が手厚くて福祉を充実させるためには政府を市場に介入させなくてはならないから、国が国民に与える影響が大きくなる。これが初代国王とかラクレスの立場で。これに対しギラは国民ひとりひとりの自由とか意思決定を重視してる、代わりに国家が介入できないことで繫栄は国が約束するものではなく、個人によるもの=「ひとりひとりが小さな王様」だとしている。要はネオリベ的思想になっている
 だからギラ政権において、人々は自由だけどどうしても救うことのできない人が出る可能性は無視できない。だからそれを受け入れるという宣言が「俺は邪悪の王!」にあらわれている。劇場版では「たとえ地獄に向かおうとも」みたいなことも言っていたように、ギラがそういう考えで「いくらかの犠牲を覚悟している」ことが、すっごくわかりやすい構造になってる。
 だから今回の劇場版は「ギラがシュゴッタムの王になるまで」のテレビ本編で描かれた「ギラの思想とその功罪」って面を端的にまとめた作品として、とても良い再編成になっていてすごく良かったんですよね。
 
 それで『ギーツ』はというと、本編では個人個人がそれぞれに願いを持っていてそれを全部叶える、というかそれを叶う可能性を持った世界にしていく……という話になってるじゃない。それってひとりひとりが分かり合う必要なんてどこにもなくて、ただお互いが持ってる固有の願いを否定しないまま、正しい闘争ができる社会を作ろうとしている。つまりテレビ本編は多様な価値観の肯定をしているわけですよ。
 ところがそこに地球自体を破壊しようとする相手がでてくる。そいつの手によって英寿が持ってる力、知性、幸運が奪われてしまう。これって「人の願いが奪われてしまう」ことと同義で、道長なんかがわかりやすいけど彼は「すべてのライダーを倒せる力」を望んでDGPに参加しているわけですよ。
だからここでは「たとえ願いが叶ったとしても、それは奪われてしまうかもしれない」っていうことを示しつつ、さらにその上位にくる問題として地球が破壊されることで、「願いを叶える場所が無くなってしまうかもしれない」という問いをぶつけてくる
 そうなったとき、バラバラだった願いがひとつに集約されていくわけですよ。つまりは「世界を救いたい」っていうめちゃくちゃ根源的なものに。
 
 ギーツ本編では「人はそれぞれに違う願いを持っている」の肯定だったのが、劇場版では「ただ世界を救いたい」が中心にある。それでねさっき英寿の力、知性、幸運が奪われたって話をしたけど、そのなかでひとつだけ奪われなかったものがある。それが「心だ」って展開になるんですけど、これもうちょっと細かく言えば「人の願いの根本には何があるか?」って話だと思うんですよね。
例にあげた道長だと、確かに力を願った。だけど「どうして力を願ったのか?」を考えたとき、それは変にライダーの力を与えられてしまったことで起こる不幸を食い止めたいからで。景和も祢音も突き詰めていけば「人の不幸を無くしたいから」に行きつく。だから方法は違えど、実はみんなの願いは同じで。
 それがつまり「仮面ライダー」であることなんだ、という話になってるわけですよ。だから本編では「同じ仮面ライダーでも別々の願いがある」を肯定しているのに対し、劇場版では「仮面ライダーすべてに共通する願いがある」というものを描いている。
 
 そしてねぇ、すごくいいのがそれを変身した姿に委託する特撮作品としての完成度なんですよ。まず本編最強フォームが「ギーツⅨ」で、要は九尾の狐なわけですが。これって尻尾の数だけ(9というのは実数じゃなくて「たくさんある」っていうのを意味しているわけですけど)願いがあることの肯定になっている。
そこから色々なものを奪われて、敵は「ギーツⅩ」になるわけですよね。でⅨからⅩが奪われたギーツは「ギーツ・ワンネス」ってフォームに変わる。全部が奪われても残るたったひとつの願いでありながら、その願いはすべての仮面ライダーに共通するもので。
そして「ギーツ・ワンネス」フォームには他のライダーたちの力も宿っているんですよ。つまり変身した姿そのものが「仮面ライダーに共通するひとつの願い」を示すようになる。
 この作品で描かれてる意味と、スーツの在り方が合致する良さ。それが端的にあらわれていて、めちゃくちゃ良かったです。
 
 いやぁ、今年の夏映画はかなりの当たり年だったんじゃないでしょうか。こういうものが見れると非常に嬉しいですね、やっぱり。

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 次回は『しん次元!クレヨンしんちゃんTHE MOVIE 超能力大決戦 とべとべ手巻き寿司』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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