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一週遅れの映画評:『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』OK、もう一度説明するね!

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』です。

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 これねぇ、こうやって話すのがめっちゃ難しい作品だと思うのよ。先に言っとくとすっごい面白かったよ、たぶん年末に今年の映画面白かった順に並べたらほぼ間違いなく10位以内には入ってくると思う、でも話しにくいんですよ。
 内容が複雑とかじゃなくて、むしろその逆。やってることがすっごいストレートで「ここがこうだったよね」とか「このシーンの真意は」とかっていう見かたがまったくできない、解釈を挟む余裕がないくらい素直な作品でしたね。
 
 スパイダーマンといえば「大いなる力には、大いなる責任が伴う」「親愛なる隣人」っていうのがあるじゃない。このNWHで描いてるのは「そのふたつを両立できるのか?」ってことで、その結論として「できない」をやっているわけですよね。でピーター・パーカーが選んだのは「大いなる責任」の方である、と。
 対等な関係である「隣人」になるためには、お互いに何らかの責務を共有する必要があるわけですよ。だけどそれに大してスパイダーマンは抱えてる責任が大きすぎて、誰とも対等な関係になれない。そうね、だから彼にとっては「責任」は義務で、望んでいるのはスーパーヒーローも市井の市民も同じ立場である「隣人」なのだけど、それはあくまで願いでしかなく。そして願うということは「そこには至っていない」をむしろあらわにしてしまうわけです。
 だからスパイダーマンに隣人はいないし、それはひるがって彼の居場所の無さを示している。だから「ノー・ウェイ・ホーム」なんですよね、帰り道が無いのは「帰れる場所」が無いから
 
 ただそんなスパイダーマンにも「隣人」なれる人物はいるんですよね、なんかどっかから「それって俺ちゃんのことだろ!」って聞こえてくる気もするけどwあのメタ発言が激しい赤黒スーツじゃなく、それは別世界のピーター・パーカー/スパイダーマンのことで。
 ヒーローとしての立ち位置、その身に降りかかった不幸、スーパーパワー、願いも含めてスパイダーマンはスパイダーマンとなら同じだけの責任を共有して「隣人」になりえるわけです。だけどその別世界のスパイダーマンはマルチバースからやってきた存在だから、元の世界に帰らなくてはならない。ここでもやっぱり「隣人」を作ることがうまくいかない、分かり合える相手とはさよならすることが最初から決まってる相手だけなんです。
 
 だから『NWH』に関して過去2作と、あと『アメイジングスパイダーマン』あたりを見ておくと……っていうのに対し、私はかなりストレートに2018年の『スパイダーマン:スパイダーバース』を押さえておくのが面白いんじゃない?とは思っていて、だってほら「自分と同じ者として隣人になれない」の先として「スパイダーマンなんだけど、全然違う」っていう『スパイダーバース』の方が、市井の人間とスーパーヒーローとの違いを乗り越えれる可能性の示唆に溢れているわけで。だからこそそういった出会いを得られなかったこのバースの、『NWH』のピーター・パーカーが抱える切実さと選択がより鋭く刺さると思うんですよね。
 ただまぁ……「『スパイダーバース』を見ておけ」って言うだけどドえらいネタバレになる問題ってのはあるから、難しいんだろうけどw
 
 あとあれね、去年『ヴェノム:カーネイジ』評で話した(一週遅れの映画評:『ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ』きのう脳食べた?

 ピーター・パーカーの孤独、ヒーローであることを隠していかないといけない苦しみって散々描かれて、結局どこにも”隣人”なんていないじゃないか?という皮肉を込めて「俺にはエディがいる」とヴェノムはいっている

 っていうのがマジでクリティカルに本作への導線として働いていたのは、我ながら凄いと思いましたね。

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 次回は『ハウス・オブ・グッチ』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの20分ぐらいからです。


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