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一週遅れの映画評:『屋根裏のラジャー』これは、すごく「冷たい」作品だ。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『屋根裏のラジャー』です。

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 良いか悪いか、って話なら”悪くはない”んですよ。勧めるか勧めないかで言えば「まぁ年末は大作映画いっぱいあるし、別にこれじゃなくてもいいんじゃない? この興行収入だったら回収のため早めに配信に来そうだし……」という非常に悪い答えがですねwていうか人に聞かないと観る映画が決めらんないヤツは大人しく『SPY×FAMILY』に行けって……とか思ってたんだけど、アレはアレで中々興味深いことになってるみたいですけど。
 
 で、『ラジャー』なんスけどぉwあー、良くない、良くないな。いまちゃんと話す姿勢になってないな、私。
 いつも通りネタバレしながら仕切り直します。えっとね、主人公の女の子は最近父親が亡くなっていて、その寂しさ……だけじゃなくて、それを踏まえてた上で気丈に振る舞おうとしている。それでその手助けとなるイマジナリーフレンドの「ラジャー」君を作り上げてるのね。
 それで主人公はそのラジャーと一緒に遊んで暮らしてたんだけど、そこにひとりの老人があらわれる。老人の傍らには黒髪でちょっと不気味な雰囲気をまとう女の子がいて、その女の子もどうやらイマジナリーフレンドなの。
普通は大人になる過程で消えてしまうイマジナリーフレンドを延命させるため、その老人は他のイマジナリーフレンドを「食って」栄養に変えている。その老人に追われた主人公とラジャーは逃げるんだけど、そこで主人公が車に轢かれてラジャーをその場に残して病院に運ばれてしまうのよ。
 本体(って言い方でいいかな?)である人物が死んだり意識不明になると、”想像力”が供給されなくなってイマジナリーフレンドは消えてしまう。ラジャーは老人から身を隠しながら、自分が消えてしまわないようにしなければならない……ってのが、まぁ序盤の流れなのね。
 で、こっからラジャーは同じイマジナリーフレンドの猫に連れられて、図書館に行く。そこにはたくさんの本体を持たないイマジナリーフレンドたちがいる。彼らは本体の成長で忘れられたり、本体の死亡によって消えてしまうはずだったんだけど、「図書館」みたいな「人の想像力」が詰まったものに触れていれば、消えずに残ることができるのね。
 
 ここまでで、私は2つ「なんだかなー」って思う部分があるわけよ。
 まぁ、その話に入る前に良かったところから言っておくと。図書館にいるイマジナリーフレンドたちが、毎夜毎夜いろんな子どもの元に「その日限りのおともだち」として派遣されていくのね。いや、それがなんかめちゃくちゃデリヘルっぽいんだけど、それはいいとして。そうやって派遣された先で、その子どもに気に入られれば「その子のイマジナリーフレンド」になることができる……さっきの例えのせいで「専属愛人契約」って表現になっちゃうんだけどw
 これの良さって、うーん、私は「子どもの自由な発想と想像力」ってあんまり信用していなくて。変身ヒーローを想像するにしても、例えば「仮面ライダーガッチャード」みたいな雛型があって、そこからの派生しか大半の子どもって思いつけないわけよ。0から1を繰り出すには、想像力と一緒に思考力が問われているわけだから、言うて知識量がまだ少ない子どもには難しいわけさ。
 代わりに組み合わせの発想というか、知識なりなんなりを身につけることで「これとこれは無関係だな」とかって考えてしまうものを、非理論的かつ”持ってる知識が少ないからこそ”手元にある限定されたものを無根拠に組み合わせることができる
 
 だからそういった点で「誰かのイマジナリーフレンドだったもの」をベースに、ちょっと自分の願望を付け加えて「自分のイマジナリーフレンド」にしちゃう。っていうのは、すごく子どもの持つ想像力の発露として正確だと思うのね。
 しかも作中では、その行為が無意識であるがゆえに止められないことによって、ある種の暴力にもなるところを描いていて。ここは凄く良いと思うの。
 
 だけどさぁ、そもそも「人の想像力が詰まったものに触れていれば消えない」のは良いとして、それが図書館て……って思うんですよ。そらね、本っていうのは大昔からある想像力によって作られたものだし、それが集まってる図書館が場として「強い」のはわかる。わかるよ。
 でもその理屈が通じるならインターネット回線に住み着いたっていいわけですよ。私たちはネットワークを通して大量の”想像力”に実際触れているわけですよ、最初に言ったようにこの作品だってたぶんすぐに配信されたりするわけで。だからこの図書館/本ってものに対して高い価値を付けたくて付けたくてしゃあない、その古い感覚が透けて見てるのがイヤなんです。
 
 まぁそれはまだいいわ。実際、普通の人からは認識されないイマジナリーフレンドたちが、静かな図書館で大騒ぎしている。それにまったく気づかず本を読んでいる人たち……って絵面は面白かったし。
 だけど、おっさんがイマジナリーフレンドを持っていて、何が悪いんじゃ! と思うんですよ。そりゃあ大人になればほとんどの人がイマジナリーフレンドを失う。これは事実としてもわかるよ。
それでも「大人になっても持ち続けている人」がいたって別にいいじゃあないか、と。私は思うんですよね。

 それなのに作中で、年を取ってもイマジナリーフレンドを傍らに置いてる人物って、さっき話した老人しかいなくて。その老人は「他のイマジナリーフレンドを食う」っていう悪役として描かれている。いや、この老人はだいぶ問題のあるキャラクターだから、悪役でいいんだけど。
それとは別に、特に害のない(同時に益もない)「イマジナリーフレンドを持つ大人」を登場させるべきだったんじゃねぇの? と強く思うわけです。

 まぁ他の人に見えない、空想のお友達を持ってる大人なんて、たぶんめっちゃ気持ち悪いわけですよ。虚空に向かって喋ったり笑ったり、ヘタすりゃ口論までしてるだろから。
えっとね、私は白石晃士っていうホラー映画監督の作品がめちゃくちゃ好きなんですけど、その中で『ノロイ』に登場する「堀」ってキャラクターがいて。彼はずっとブツブツ意味のわからないことを喋ってたり、「霊体ミミズの恐怖!」が書かれた気色悪いチラシを配ってたりするんですね。
だけどその私たちの常識からすれば「狂ってる」としか思えない行動や言動が、実際には作中での真実を正確に捉えている。私はこういう、どう考えても異常なものが実は本当。という設定って「優しい」と思うんですよ。
 つまり「頭がおかしい」と切り捨てて、排除されてしまうような人たちを「いや、彼らが正しいのかもしれないよ?」って、いったんストップをかける。ただ社会からパージしてしまうんじゃなくて、可能性の一部として積極的じゃなくても受け入れていく(少なくとも存在を消そうとはしない)態度って、すごく「優しい」じゃないですか。
 その点で『屋根裏のラジャー』は、大人になってもイマジナリーフレンドを持っている人を「悪役」にしかできない点で、ものすごく冷たい。わりと容赦の無い「排除」へと傾いていると思うんですよね。
 
 いやまぁ、子ども向け作品にホラー作品をぶつける私がダメっちゃあダメなんだけどさ。それでも私はこの作品からそういった、「相容れないものを排除したい」という部分を受け取ってしまいました
映像も面白いし、基本的なイマジナリーフレンドと子どもの関係、あるいは「大人だって、子どもだった」という視点はすごく良いと思う。あとは展開にも退屈しないし、図書館周り~派遣システムとかは見ていて楽しいんです。
 だからこれだけマイナスがあっても「悪くない」って結論にはなる。でもやっぱ「今年のラストはこれを見ろ!」とは勧めらんないよ、私には。

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 次回は『仮面ライダー THE WINTER MOVIE ガッチャード&ギーツ』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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