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一週遅れの映画評:『妖怪ウォッチ♪ジバニャンVSコマさん もんげー大決戦だニャン』いつもの、新しい、妖怪ウォッチ。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『妖怪ウォッチ♪ジバニャンVSコマさん もんげー大決戦だニャン』です。

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 見に行く映画を決めるときって、まぁ大抵は自分が行ける範囲にある映画館のHPを開いて、上映情報をざざーっと見る感じなんですけど。そこに『妖怪ウォッチ』の名前見つけて、「あ、なんか久しぶりだな」と……たぶん5年ぶりとかじゃないかな? 映画館で『妖怪ウォッチ』が上映されるのって。
 まぁ去年とか今年だとレベル5といえば『メガトン級ムサシ』じゃないですか。ちゃんと面白いし、その背景に「きっと『ガンダムAGE』でも、こういうのをやりたかったんだろうな」ってのが透けて見える感じもあって。いまは色々な影響でかなりとぎれとぎれの配信になっていて大変だねぇ、という状態にはなっていますが。

 という気持ちを抱きつつ、映画『妖怪ウォッチ』の上映時間をみたら48分とか書いてあるわけですよ。よよよ、よんじゅうはっぷん!? まぁほぼアニメ2話分ですよね。超短いの。ただ私はこうやって喋るために映画を見ているだけなので、上映時間なんて短ければ短いだけ嬉しいわけですよ。基本どんな作品を相手にしていても「はよ帰りたい」って心の隅っこでは(あるいはど真ん中では)思ってるわけですからね。マジで3時間越えの映画とか、それだけで大減点ですから! 上演時間だけで低評価つけるクソ批評家斬り!

 波田陽区なんて久々に思い出したし、ってぐらい「妖怪ウォッチ」というタイトルも久々に聞いた人も多いんじゃないか? と思うわけですよ。あの社会現象と呼べる大ヒットから時代を経て、いまでは「ずいぶん縮小はしたけど、まだなんとか稼げる」タイトルになった。という状態なので、目まぐるしく人気コンテンツが入れ替わる現状ではなかなか目立たない存在になっているのは間違いないです。
 そういった環境の中で繰り出される「5年ぶり48分の劇場版」っていう作品に対して2通りの予測が立つわけですよ。ひとつは「持ってるリソースを最大限投入した、短いからこそ濃厚で綺麗にまとまった良作」、もうひとつは「余剰戦力でとりあえず形にした、わりとどうしようもない凡作」。こういう作品こそ、自分で見に行って確かめる必要を感じるわけですよ、私は。

 結論から言えば、どっちの予測も外れて「びっくりするくらい”いつもの”(だけど新しい)妖怪ウォッチだった」という感想です。ただ、ただ最後のシーンがめちゃくちゃ良くて。それだけで私はちゃんと満足できました。

 今回はある妖怪によって、ジバニャンが大好物のチョコボーとコマさんが大好物のソフトクリームが全て消滅してしまう。さらにはその妖怪から「二人で戦い、買ったほうの好物だけを返してやる」とそそのかされ、なぜか巨大化して街を破壊しまくるバトルがはじまるんです。
 しかもその巨大化とかセリフで『シン・ウルトラマン』をこすりまくるっていう。フユニャンに「そんなにチョコボーが好きになったのか、ジバニャン」と言わせたり、確かにジバニャンのカラーリングは赤+白なので、ちょっと手を加えればウルトラマン風になるんだけどさぁw 実際シン・ウルトラマンのメフィラス星人とリピアーも「自分の欲望(人間を資源としたい/人ピのことがしゅき)」で対立しての戦闘になるなるわけだから、パロディとして正しいのが「うわ、完全に『妖怪ウォッチ』じゃん!」と若干のノスタルジー込みで強く思わせられましたね。

 それでね、こうケータの「ジバニャンとコマさんには、ずっと仲のいいトモダチでいて欲しい!」という呼びかけとか、他にも色々……コマじろうがシン・コマじろうになってゴジラ風のキグルミで口からプラズマレーザー吐いたりとかw まぁなんやかんやあって事態は丸く収まり、チョコボーもソフトクリームも無事戻ってめでたしめでたし。で終わるんですが。

 そのあとで、ジバニャンとコマさんがケータ家の屋根に登って、ふたり並んでチョコボーとソフトクリームを食べてるんですけど、そこで「それってそんなにうまいニャンか?」「チョコボーがどんなにオイシイか気になるズラ」と言いあって、お互いに手に持っているチョコボーとソフトクリームを交換し、一口ぺろりと舐める。そして無言のままもっかい交換して、いつもの状態に戻るっていう

 いやね、ここがすごい良いと思っていて。私は『妖怪ウォッチ』のヒットには「ネガティブな感情の肯定」があったからだと思っていて、サボりたいとかイタズラしたいとか、もっと曖昧なタルい気分だとかなんかムシャクシャするとか、そういった状態になってしまうことを「妖怪」という外部に切り離すんだけど、それを排除することなく「トモダチ」にしていく。そういったネガティブな感情と緩やかに手を繋いで、排他しすぎるわけでも受け入れすぎるわけでもなく、穏やかに肯定していく姿が良かったと思ってるんですよ(確か前に『ビンダー』のキッズアニメ時評で書いた気がする)。

(そのテキストが掲載されてる電子書籍はこちらです。)

 で、ここで起こってることって「友人の好きなものが、自分には合わなかった」という状態。その中で相手の好きなものを否定することもなく、かといって自分の感性を無視して「おいしい」とかいう社交辞令をすることもなく、ただ黙って元に戻すだけっていう。『妖怪ウォッチ』にあったのが「ネガティブな感情の肯定」だったところから一歩踏み出して「理解できない相手の尊重」がここにはあるんですよね。
 否定もしない、肯定もしない。だけどそこには「自分とは違う個人」がいて、その在り方を静かに尊重するという態度。しかもわからない、理解できない部分があっても、それはそれとして「トモダチ」であるという繋がり方。
 私にとって「多様性を認める社会」への応じ方として、これはかなり正解に近いのではないのかと思えるんですよ。

 わかりあえない部分を、わかりあえないまま、トモダチになる。「ネガティブの感情の肯定」から続く先に「理解できない相手の尊重」があるっていうのは、すごくね、感動的と言ってもいいと思いました。そして理解できない相手=妖怪とも「トモダチ」になれる、という作品の根幹に回帰していく構造としてもかなり良かった。
 だから「びっくりするくらい”いつもの”(だけど新しい)妖怪ウォッチだった」と評するわけですよ。これがなー、もっとブームだったときに繰り出されていたら、もっと嬉しかったんですけど。まぁ、こうやって落ち着いたからこそ出せる答えだった、ということで納得しておきましょう。

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 次回は『アイカツ!10thSTORY 未来へのSTARWAY』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの18分ぐらいからです。


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