見出し画像

一週遅れの映画評:『窮鼠はチーズの夢を見る』虚無なる平等/心を右手に宿した獣。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『窮鼠はチーズの夢を見る』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※※

 「Hey,Siri」でも「OK,Google」でも「アレクサ」でもなんでもいいのだが、そういったAIが返してくる答えは基本的に問いかけた者がどういった人物なのかは関係が無い。投げかけられた言葉に設定された結果を返すだけである。
 それは彼らが人格を持たないからだ、プログラムという外装を持ちながら中心の無い存在。だからこそAIは相手の属性に左右されない回答を用意する。
 
 本作の主人公・恭一はそういった存在に近い。彼は自主性のある愛情がほとんど存在しない人物として描かれており、自分を好きになってくれる相手に対しての「反応」でしか愛情が駆動していない。とりあえずのところ彼は異性愛者として生活をしているが、そういった「反応」としてしか恋愛をすることができない人格だという点を鑑みれば彼の異性愛者としての振る舞いは後天的なもの、つまり「自分を好きになってくれるのはどうやら女性のほうが多く、それが社会的にも大多数に属する傾向らしい」という学習から手に入れた傾向のように見受けられる。
 恭一が同性愛に対して否定的な言動をしても、それはいままでの学習と異なった展開への抵抗でしかない。だから「自分はそうではないけど、他人の性的志向を否定はしない」という態度もまた、多様性を受け入れる社会が「どうやら最近はそういうのが正しいようだ」という学習と反応の結果である。
 つまり彼には自主的な愛の在り方が存在しない。他人が自分にどういう気持ちを向けるか?社会的にどこへ属せば多数派になるのか?ということへのリアクションだけで恭一の愛(らしきもの)は成立している。
 
 人格の存在しない者、人というよりはAIに近い恭一はだからこそ平等である。恭一の中心には虚無が広がっており、そこには判断や基準は無い。それゆえに相手が同性でも異性でも、不倫でも年の差があっても、大して違いはあらわれない。何もない、からこそすべてに等しく「何もない」。
 そして虚無に向かって想いを投げかけると、それと同じ想いが「反応」として返ってくる。人は相手の内心を知ることができない、返ってくる「反応」を受け取って、そこから相手の心情を推測することしかできないのだから、そうやって自分の想いに対して「反応」をされれば「相手も自分と同じ想いを持っている」と誤認してしまう。
 
 それは一見優しく思えるが非常に残酷な生き物だ。
 とはいえ、私はそれを肯定したい。というよりも私がかなりそういった生態に近いこともあって、非常によくわかるのだ。
 心の内でどれだけ複雑で微妙な思考が渦巻いていようと、表面化した行動は「したか、してないか」の2つにしかならない。やったことに対して(あるいはやらないことに対して)理由をつけるのなんて簡単だし、いかにもそれらしい答えを並べることなんて造作も無い。だけどそれが本心からそう思っているのか、後付けで思いついた理屈を「そうだったんだ」と思っているだけなのか、私は私自身の行いに対して正確にはわかっていない。
 誰かを好きだと思ったところで、それが支配欲や執着ではない自信はまったくないし、そもそもそういった誰かを選別している根拠が「自分が気持ちいいから」という快/不快以上のものでは無いと感じている。
 だから結局のところ私は人格というものが本当に存在しているのか懐疑的だし、少なくとも自分自身はかなりの部分で「反応」と後天的学習によって動いている。強いて言うなら快/不快という2択でしか判断をしていない。
 そしてとても個人的な感覚として、そういう人は少なくないように思う。自覚している/していないの差はあれど、そういった「反応」として感情しか他人に持てない人は決して少数派では無いように感じるのだ。
 そもそも私たちは既知のもの(頭に思い浮かべれるレベルという意味で、例えばいますれ違った人とか、妄想の相手とかも「既知」である)しか好きになることができない。人類は、まったく不明なもの(想像すらできないもの)に感情を向けることができないという欠点を持っている。つまりそれは大なり小なり「反応」でしか感情を持てないということだ。
 
 だから本作でセックスシーンが多い、特に恭一が今ヶ瀬と関係を持つ段階としてフェラチオが最初にあることには大きな意味がある。
 虚無である恭一にとって快/不快はおそらく唯一と言っていいぐらいの判断基準だ。後天的に異性愛者ではあるものの芯の部分では平等である恭一にとって、相手が誰であろうとも「気持ちいい」というのは彼にとって大きな理由になる。そして一方的に快感を享受できるフェラチオは、恭一が今ヶ瀬を受け入れてしまうきっかけとして強烈に作用するのだ。
 この作品の素晴らしい部分の一つはそこにある。性的なシーンがサービスだけではなく、物語として不可分かつキャラクターをより深く理解していくための重要なものとなっている。セックスを(というか快楽を)描かなければ成立しない物語を、しかも相互理解ではなく「断絶」を意識させるために使うのは非常に困難で、それを成立させている物語の精度が尋常ではなく研ぎ澄まされている。
 
 それに加えて別れのシーンにおける言葉選び。序盤にある恭一が妻から告げられる「気持ち悪い」も、中盤で今ヶ瀬から告げられる「これ以上先、あなたと行ける場所なんてない。行き止まりまで来たんです」も、あらわしているのは同じことだ。
 虚無である恭一に対して、彼が虚無であることに結婚生活のなかで気づいた妻はその不気味さに「気持ち悪い」と言い、それでも良いと関係を持っていた今ヶ瀬もまた「自分の気持ちが一瞬でも途絶えたら終わる」ことに絶望し、虚無である相手からは「反応以上の想いが返ってくることはない」ことに限界を感じる。それは決して双方向にはならない愛情の形に、反応するだけの虚無に対して人が耐えれる限界を意味している。
 
 今ヶ瀬はその別れに際して、二人で最後に海を見に行く。
 それは虚無である恭一に対しての願いだ。一緒に同じものを見るように、あなたも自分と同じように「自発的な愛」を持っていて欲しかった。その願いが最後、一緒に海に行って朝日を見るという行動に託されている。
 
 そしてその願いは、叶う。
 
 恭一と今ヶ瀬が暮らしていた部屋で印象的なのはベッドとその横に置かれたスツールだ。ベッドで寝る恭一と、スツールに座っている今ヶ瀬(あるいは後半で登場するたまきという女性もまた、ベッドにいる恭一とスツールに座るたまきといった構図で描かれる)、それはベッドを中心としながらそこは「寝る場所」であり、意識の無い場所(=虚無)と、その周辺にまでしか立ち入れない虚無を愛してしまった者の関係をあらわしている。
 
 婚約までしたたまきに別れを告げ、戻ってくるかもわからない今ヶ瀬を待つことを恭一は選択する。
 
 今ヶ瀬が捨てた灰皿。それを洗って回収したものが中央におかれ、それをスツールに座って眺める恭一というラスカットでこの作品は終わる。
 それは戻ってくるかわからない相手(空の灰皿)と、これまで愛してしまった相手に近づけるけど「そこまで」の場所であったスツールという場所。それが意味するのは、恭一が反応ではなく初めて「自主的な愛情」を手にしたのかもしれない。ということだ。
 本作はほぼ全シーンにおいて映像的な隙がない。あらゆるカットに意味と理由を織り込んでいる(もちろん素晴らしい映画はほとんどがそういった特性を持っているのだが)。その中でもこのラストカットに託された意味は、映像としてとても強く伝わってくる。
 
 実をいうとこのラストシーンは原作と大きく異なっている。
 
 私にはこの改変が、むしろより強く恭一の変化を描いてるように思えた。それはこの原作を正確に咀嚼し解釈した結論として、原作よりもなお正しい終わりだったように感じる(ただ作品の終わり/漫画としての満足感として原作もまた正しくはあるのだが)。
 
 そういった点も踏まえて、映画として非常に素晴らしい作品であった。

 合わせて、こういった「虚無なるものが他者を認識していくことで、いままで持てなかった感情を発露させる」という視点から、この『窮鼠はチーズの夢を見る』は岩明均の『寄生獣』と非常に近い作品であると言えるだろう。

※※※※※※※※※※※※※※

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?