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一週遅れの映画評:『シン・仮面ライダー』真の正義は、孤独でしかなく。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『シン・仮面ライダー』です。

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 最初に見終わったときは「バカがよwww」ってなってたんですよ。いやだってさ、本郷とバッタオーグ2号が戦ったとき本郷は左足をぼっきり折られて。それでそのあとの展開でバッタオーグ2号が仮面ライダー第2号になるじゃない? 『仮面ライダー』で、藤岡弘、が撮影中の事故で左足を骨折して、その代わりとして仮面ライダー2号\一文字隼人が登場することになったという事実が、完全に”歴史改変ビーム(映画『スーパーヒーロー大戦GP(2015年)』で本当に使われた敵の技)”撃たれてんじゃんwwwつってめちゃくちゃ笑っちゃったの
 他にも『仮面ライダー』の強すぎる引用があったり、ていうかロボット刑事Kだし、チョウオーグはイナズマンから仮面ライダーV3っぽいダブルタイフーンベルトと白マフラーだし、父よ母よ妹よで、正直すっごい楽しかったのよ。「うはははwwバッカじゃないの?www」って感じで。

 だけど、あとから思い返してみるとそういうシーンばっかり頭の中に残ってて、肝心の部分。なんというか作品の「芯」のことがさっぱり記憶に残っていないのよ。こうなっちゃう理由っておおむね2パターンあって、ひとつは「芯なんてハナっからない」パターンと、もう一つは「そういった外側に目が行き過ぎて、芯を捉えられていない」パターンなんですよね。
 で、今回はどっちかって言うと明らかに後者なんですよ。
 というのもひとつのセリフがめちゃくちゃ頭に残ってて、それが砂浜で立花が言った「絶望はお前だけじゃない、多くの人間が同じように経験している。だがその乗り越え方がみな違う」ってやつで。それを頼りに何とか内容を思い出して(嘘。本当はもうどうにもならんかったから、2回目を観に行きました)、ようやくわかってきたんですよね。

 そもそもショッカーの運用をしている人工知能が、人類を幸福にするために「最大多数の最大幸福」を選ばず「絶望のもっとも深い者を救済する」という方針だ。って話なわけじゃない。でね私は度々こういうことを言ってるんですけど、「不幸くらべは意味が無い」のよ。だって人は結局のところ「自分の不幸/自分の絶望」しか理解しようがないわけさ、そりゃあニュースであったりとか、あるいはフィクションで他人の不幸を知ることはできる。
 だけど自分の身に降り掛かってくる不幸ってやっぱ別物で、他人から見れば「なんだその程度」と思うようなことでも、当人にとっては世界を呪うレベルの絶望だってことは往々にしてあるわけじゃない。わかりやすいところだと「彼氏にフラれた」とかさ、正直世には数多の恋愛事情があって今日も何万組ってカップルが破局を迎えてるわけですよ。それでもいまこの瞬間にある「私の絶望」は何よりも大きくて、自殺しちゃう人だって普通にいるレベルなわけじゃない。
 だから私は、「誰もがその人にしかわからない世界一の絶望と戦っている」と思ってるし、それゆえに「不幸くらべは意味が無い」って立場なのね。

 それでその立場から考えたとき「絶望のもっとも深い者を救済する」と「みんな絶望を乗り越えている」が合わさったとき、ある結論が出てきてしまうのよ。つまり「誰もが深い絶望を抱えている」なかで、ほとんどの人は自分の力でその絶望から立ち直っている。すると残されたのは自分で絶望から立ち直ることのできない人間……つまりは「弱者」であると。
 だからショッカーのオーグ/怪人っていまの社会における「真の弱者」に属する人たちなわけですよ。そうやって考えると色んなオーグたちとかKがバッタオーグ/仮面ライダー/本郷猛に「組織に戻ってこい」って言う理由がよくわかる。だって本郷猛ってコミュ障の無職で、完全にいまの社会では「弱者男性」そのものじゃないですか。
 だからショッカーのオーグたちにしてみれば「お前はこっち側だろ!!」ってめちゃくちゃ思うわけですよ。同じ弱者なのに、どうして敵対するんだよ! って。

 いやね、各オーグ自体の思想ってそれぞれに相容れないんですよ。少なくとも全人類感染を目指すコウモリオーグ、全人類奴隷化させたいハチオーグ、全人類プラーナ化を目論むチョウオーグなんかは共存不可能だし。とにかく人間嫌いのクモオーグなんかも無理じゃん。サソリとKKはよくわかんないけどw まぁ突き詰めれば共存不可能な欲望を抱えてるであろうことは想像に難くない。
 でも、それでもですよ。そんな仲間内で争うのなんて全然先の話なんですよね。社会的弱者である彼らは、緩く連帯しながらまず社会全体に対して勝たなくてはならない。だからショッカーに相対するのは日本政府のエージェントっていう「強い社会」になるわけなんですけど。とにかくそこに勝って、ショッカーが世界征服をして、内輪もめするのはそこからでいいじゃあないですか! そうやって考えたら仮面ライダーってめちゃくちゃ邪魔なんですよね、いまそこで争っている場合じゃないのに、同等の力をもって敵対してくるのだから。

 じゃあなんで仮面ライダーと仮面ライダー第2号は、そういった弱者の立場に陥らないのか? 洗脳っていう部分を除いて考えると、今回の『シン・仮面ライダー』における「孤高」「信頼」「継承」というキーワードが関係してくる。
 ショッカーのオーグたちが持ってる欲望って、他者との相互関係が必要不可欠なんですよ。許せないとか支配したいとか、それって「私とあなた(たち)」の関係性がどういう状態であって欲しいか? って話になっている。クモの嫌いも、コウモリとハチの支配したいも、それで言うとサソリの「快楽の対象」であったり、KKの「先輩後輩の関係に固執する」姿もそう言えるわけですよね。
 それに対して「孤高」はわかりやすく一人だけの話。「信頼」も本郷猛がルリに「僕のことは信用しなくていいから、僕の作戦は信じてくれ」っていう、そこには事象だけがあって人(他者)の存在は無視しても良いって言っている。「継承」では伝えたことで、その発信源である者は消えて(死んで)しまう、伝えた側はそれが成されたかどうかわからないし、伝えられた側は受け取った瞬間にひとりになってしまう。
 つまりここでは「社会」が形成されていないわけです。人間が集団となったとき、そこには社会が生まれて、その中での序列や優劣が生まれてしまう。だからどうしようもなく「弱者」が生まれてしまう構造になっている。それに対して他者を必要としない仮面ライダーは、社会の外側に立ち続ける。

 それに対して徹底して他者を必要とするのが、観測者であるKなんですよね。観測対象がいなければ存在自体が無意味となってしまうKは、社会がそこにあることを絶対に必要としている。
 さらにはその社会に変数、オーグという力を弱者に与えることで、その弱者がどういう振る舞いをしてみせるかを観測している。言い換えれば「弱者を煽って武器を与え、その結果として起こる混乱」を望んでいるということで。それはつまり私たちの一面、他人をコンテンツとして観察しながら、悲劇や炎上をしたり顔で眺めてニヤニヤしている悪辣さを意味している。
 あくまで観測者だと言い張るKの醜さ、その背後にあるショッカーがなぜ悪なのかの答えがここにある。幸せを与えてるフリをして、誰かの増幅された不幸をコンテンツとして消費している邪悪さがショッカーの本質なのです。

 改造人間であるバッタオーグは人間の社会に居ることができず、集団に属しない仮面ライダーはショッカーから離反するしかない。『シン・仮面ライダー』が、ひいては『仮面ライダー』が描いた正義の味方の条件がそこにはある。どの社会からも、どの集団からも距離をとり、その外側に居続けることでしか守れない正義。それは強者であろうと弱者であろうと、その構造の外側にいる者にとっては対して違いは無く、尊重されるべき生命なのだということで。
 その生命が脅かされるとき、その倫理に従って戦う「正義の味方」こそが仮面ライダーの\ヒーローの条件なのだと(そしてこれは映画『仮面ライダー1号(2016年)』で語られたのと同じテーマでもあるのです)。
 孤独であること、その孤独に耐えうる精神。それが社会に組みせず「正義の味方」であり続けるための強さである。”仮面ライダー”とはその強さを持つ者に与えられる名前なのだ、と。

 だから私がこの『シン・仮面ライダー』を観て、一番泣いちゃったとこってエンドロールで「ロンリー仮面ライダー」が流れたときなんですよね。仮面ライダーが孤独にひとりで斗い続けなければならないとき、私はその姿を見送ることしかできない。
 この世界で集団に属さず社会から距離を取ることは難しく、それでもなお「正義の味方」でありたいなら。

 その願いを込めて、こうやってひとりポーズを取って叫ぶわけですよ。
「変身!」

 こうやって全力で変身ポーズを取る、誰にも見せられない恥ずかしい姿をやってみせることで、その孤独に少しでも近づきたいと。「仮面ライダーごっこ」をやらずにはいられない、そしていまも”仮面ライダー”シリーズが作られ続けてる理由の一端がそこにあるような気がしています。

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 次回は『グリッドマン ユニバース』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


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