見出し画像

一週遅れの映画評:『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』そして、99回の”白”を。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』です。

※※※※※※※※※※※※※

 この『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』は、「スタンド使いである岸辺露伴の敗北」であり「漫画家である岸辺露伴の勝利」を描いてる作品なんですよね。
 
 まぁ順番に話していきましょう……の前に、ヘブンンズドアー!

 ”映画を見るまでは、この先を読むことができない”


 ……よし、いいぞ。こうしておけばネタバレを躊躇する必要がなくなるじゃあないか。
 
 岸辺露伴は山村仁左右衛門の描いた「この世でもっとも”黒い絵”」のことを思い出して、パリのルーヴル美術館にまで取材に行く。そして廃棄された地下倉庫でついにその”黒い絵”と対面し、そこで絵に込められた力が発動するわけですよ。
 で、この”黒い絵”っていうのが「見た人間の過去が襲ってくる」っていう力を持っていて。例えば戦場に行ったことがある男性の前には、戦地で死んだ仲間があらわれて銃撃してくる。息子を水難事故で亡くした女性には、その溺死した子供が出てきて彼女を溺れさせたり……それどころか、その人の過去だけじゃあなく「先祖代々が犯した罪」までもが襲い掛かってくる
 
 この時点で岸辺露伴のヘブンンズドアーはどうしても”黒い絵”に負けるしかないわけですよ。露伴のヘブンンズドアーは相手を本に変えて、そいつの人生であったり記憶や考えを「読む」ことができるって能力じゃあないですか。これってめちゃくちゃ強力ではあるんですけど、そこには制限があるわけ。
 つまり「その人間のことしかわからない」、本に変えた人の記憶や知識が読める限界になっている。そいつの知らないことは書かれていないし、ましてや先祖代々の人間が何をしたかなんて知りようが無い。
 だから先祖代々のことまで参照してくる”黒い絵”って能力のおよぶ範囲が、ヘブンズドアーの何倍にも広いわけですよ。もう持ってるパワーが段違いすぎてどうしようもない。だから岸辺露伴は自分に「自分の記憶を全て消す」と書き込んで窮地を逃れるんだけど。
 
 えっとね、岸辺露伴って「リアリティ」に重きを置いてる漫画家として描かれているわけよ、例えば漫画に美術品を出すとき「本物の美術品」を参考資料にしようとする。それが贋作だったら「僕がリアルに感じたものを絵にする。わざと偽物っぽく描かなくても、それが贋作だったら鑑定士であれば絵だけで贋作だとわかる」と主張する。
 つまり露伴は自分が手で触れ、目で見、肌で感じた「リアル」を元として「リアリティ」のある漫画を描いているし、そこに強いこだわりとプライドを持っている。そんな露伴が「自分の記憶を全て消す」、つまりこれまで積み上げてきた知識や経験を全て失わなければならない……それは露伴の製作スタイルとして、ほとんど「漫画家としての死」を意味しているわけですよ(まぁすぐに記憶は取り戻すんですけど)。
 この時点で露伴は生きてはいるものの、スタンド使いとしても漫画家としても”黒い絵”に負けてしまっている
 
 で、この『ルーヴルへ行く』はパリから帰国した後に”黒い絵”の描かれた背景を知るパートに入るんですけど……正直なところ作品としてはこの真相パート、蛇足だと思うんです。ここまでのお話できちんとまとまっているし、ちゃんとオチもついている。だからはっきり言ってこの真相パートは面白くない。
 だけど「岸辺露伴」ってキャラクターを考えたとき”黒い絵”の真相を知ることってめちゃくちゃ重要なんですよ。ここまでで露伴は”黒い絵”に敗北している、そんな重大で貴重な体験を岸辺露伴は絶対に漫画へと反映させてしまう(そもそもルーヴルへ行ったのは次回作の取材でもあったわけだし)。
 そうすると露伴のスタイルとして、そこには必ず「敗北」が描かれてしまう。スタンドバトルとして負けたのはどうでもいい、だけど漫画家として負けたままでいることを、岸辺露伴が良しとするわけないじゃあないか
 
 だからここで”黒い絵”の背景を知ることで、その存在が生まれた経緯自体を経験として取り込む。そしてそれを題材として「リアリティ」を持って描くことで、岸辺露伴は”黒い絵”を恐るべき外部のものから、自分の作品へ中に取り込んで「内側にある支配したもの」として上書きすることができる。
 そうすることで岸辺露伴は”黒い絵”に「漫画家として」勝利することになるわけですよ。
 
 そして、その可能性を呼び込むことができたのは編集者・泉京香がいたからなんですよ!
 
 パリパートの終わりに、泉は”黒い絵”によって殺されかけた女性学芸員を慰める。幼い息子を事故死させてしまって、きっと恨まれてるという彼女に「ただちょっと近くにいたかっただけなんじゃないかな」と告げながら、自分の持ってる写真を見せるんですよね。
 そこには泉が5歳の時に亡くなった父親が、ルーヴル美術館で撮ったもので。それを指しながら「(自分も父親と)なんか近づけた気がする」って言うんですけど、ここがめちゃくちゃ良いんですよ。
 
 つまり”黒い絵”は過去、しかも血の繋がりを辿って先祖まで含めたものを参照して襲ってくるわけじゃあないですか。それを露伴は「血のつながりから逃れられる者はこの世にいない」って言うわけですけど、ここで泉は「父親が写真を撮ったとき」から見て未来にいる自分を自然と発見しているわけですよね。
 ”黒い絵”が血の繋がりを「過去から続く呪い」のようなもとしているのに対し、泉は血の繋がりを「未来へと続く祝福」として反転させてるんです。
 
 しかも彼女は”黒い絵”を見ているにも関わらず、その力に襲われていない。
 ちょっと思い出して欲しいんですけど、ドラマ版『岸辺露伴は動かない』の第1話で泉京香がヘブンズドアーによって本になったとき、彼女は「ファッション雑誌風」の本になったじゃあないですか。ファッションって流行り廃りがあるから、そこについて知ろうと思うと絶対に未来のことを考えなきゃいけないし、雑誌っていうのも定期的に刊行されて更新されていく未来へと繋がるものですよね。
 つまり泉京香はその本質が「未来」でできている。だから”黒い絵”、お前の「過去」を参照する攻撃は……泉京香には通用しない! 無駄無駄無駄無駄ァ!
 
 ……でねw 突然ですけど、私は小林銅蟲『めしにしましょう』って漫画が好きで、これ基本的には異常料理漫画なんですけど、ときどき漫画創作論が飛び出てくるときがありまして。それの5巻にこういう話が載ってるんですよ。 

小林銅蟲『めしにしましょう』第5巻、四十五の膳「ワンダーの吸いもの」より


 ここで述べられているように漫画を描くには「未来を予知する能力」と「それを実現する能力」が必要ってありますけど、ここにはもうひとつ大事なものが欠けているじゃあないか。それはその線を引くための場所、つまりは「未来を描く」ための(概念として)”白い紙”が
 そして漫画家に描くべき場所を運んでくるのが、編集者であり。岸辺露伴にとっては泉京香がその役割を担っているわけですよね。
 
 過去を武器にする”黒い絵”と、未来を描くための”白い紙”。それをもたらすのは、本質が「未来」でできている泉京香。彼女が「次回作、『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』でおねがいします」と言うことで、露伴は”黒い絵”の話を描く未来を手に入れて、そして「漫画家として」”黒い絵”に打ち勝つことが可能となるのです。
 
 本作で露伴は泉に「君は100回に1回ぐらいは良いことを言うな」って言いましたけど、これってまぁそのまま「100回に1回」は参考すべきことを述べているって意味ではある。ただ、たぶん露伴本人も自覚していないけど、そこには「あと99回の空白がある」って認めてることでもあると思うんです。
 100回全部が埋められてしまったら、それはもうその過去の100回で塗りつぶされた”黒い絵”になってしまう。だけど泉京香にはあと99回の”白い紙”が残されている
 
 この作品で露伴は過去にあった初恋の女性からはじまった”黒い絵”に負けて、そこから未来を運んでくる仕事仲間の女性がもたらす”白い紙”によって勝つ
 全体の構成としてめちゃくちゃ対比の効いた、すごく練られたお話だったと思いました。

※※※※※※※※※※※※※

 次回は『怪物』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの16分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?