見出し画像

一週遅れの映画評:『mother』私は、だけど、肯定してしまう。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『mother』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※

 今回は全体的に良くない話になるっていうか……お話全体としては「17歳の少年による祖父母殺害事件」「虐待」「母子の共依存」っていう設定、まぁ実話を元にしてるから設定って言い方もどうかとは思うんだけど、そのあらすじ段階から予想できる話ではある。だから物語的な驚きとかは一切って言っていいくらい無い。
 
 その上で、まぁこの母親が悪いことをさせるその実行犯をことごとく息子に背負わせていくのよ。モノを盗んで来い、金を奪って来い、結末である祖父母殺害に対しても「あー金ねぇーなぁ。ババアなら持ってるだろうけど、もう借りられないしなぁ……殺せばいいのかな?どう思う?そう思うよな?だったらどうすればいいのか、わかるよな?」みたいな感じで誘導していく。
 それがもうホントに言い逃れをゴリッゴリに塞いで「そうするしかない」と無理矢理いわせて「お前がやるって言ったんだからな!それなのに今更できませんとかありえないからッ!」って圧をかけていくっていう、マジで酷い、酷いんだけど。
 
 えー、うーんと、こうすごーく微妙なところを汲み取って欲しいのだけど、私はその陰鬱で悪辣なシーンを見ながらね、ワクワク……ってのもちょっと違うか、もの凄く酷いことが行われていることを否定しながら、それは理性だけじゃなくて心情としてもね否定しながら、「でも私はこれを肯定せざるを得ない」っていう感覚が並行して働いてたのね。
 
 その、私って自分が過去にやってきた暴力の話を、元旦那にフォークを本気で殺意を込めて突き刺した話とかするじゃん?
 それは自分の中になる暴力性を自覚するためでもあり、そういうことをしてしまった反省もあり、それを口に出すことで罪を受け入れていきたい懺悔したいって気持ちはある。大前提としてある。
 けれどその一方で、こうやって、まぁ聞いてる人の人数なんて決して多くはないけどさ、ネットで話す、不特定多数に告白する必要なんて全然無いわけじゃない?だからそこにはやっぱどこかに、あーうん最悪の物言いだけど、自慢げな部分て絶対にあるのよ。いやーやだなー、これ直視したくないなー。
 
 それってたぶん生き物として、社会性や倫理のある人間としてではなく動物としての有能さ、同じ生物に対してそれを暴力で支配できるってまぁそのー、動物としてね、ケモノとしてね、これ絶対に忘れてないからね、生命体として強いわけですよ。だからどっかで自分が暴力をふるっていたことに対して「許されないけど生き物としてツエーってことだから」みたいな感覚が、なんかヤンキー漫画の世界観だなこれ、あるわけですよ。
 
 で、で、で、話を戻すと、この母親「私が生んだ子供を私の好きにして何が悪いのよ」って言い放つ、いや悪いだろって話なんだけど、でも生き物として、倫理とかそういうものを全部取っ払って生存能力に極振りしたした結果としては最適解でもあるわけよ。だから強いケモノ、「自分が」生きること特化の生命体として、どうしても否定しきれない。違うな、否定はする、けれど同時に肯定もできてしまう。この現代社会っていうステージっていう切り取り方では否定するけど、野生の中で生きることが第一命題であるステージだとしたら肯定するしかないし、私はその肯定せざる得ない世界観を自分の中に持ってしまっている。そういう感じかな。
 
 だってねー、この母親流れた先で男作ってはそれで何とか生き繋いだり、それで安全な場所を確保したりで、たぶんそういう異性がどうしても手を出してしまうような色香、っていうほど高級じゃあねぇな、性欲を喚起させる「何か」を持ってるのよ。もうそれってやっぱ「生存」特化のチートスキル持ちみたいなもんじゃん?異世界転生ハーレムの地獄版みたいな。
 
 だからこれを単純に酷い話、つらい話、悲惨な実話って受け止めることは、きっとそうすべきなのだろうけど、私にはできなかったかな……。『ジョジョ』7部の「スティール・ボール・ラン」でリンゴォ・ロードアゲインが「「男」と「社会」はかなりズレた価値観になっている……」って言ったじゃない?あれを読んでる感じにすっごく近い 

画像2

 「社会的な価値観」がある、そして「生き物の価値観」がある、とでも言うか。そういったなかで誰も幸せにならない先祖返りを、しかもチートスキルを持って果たしてしまったのが、この母親のような気がする。
 
 一応付け足しておくと、私はそういう「生きる強さ」に対して、自分もその眷属にいるからだろうけど、ある種の憧れや尊敬を抱いてしまうからこういう結論になってるけど、これはやっぱりどう考えても間違ってるからね?
 今日の話は「間違ってる人が間違ってる人のことを肯定している」っていうすげー悪いことをしてるから、それだけは忘れないで頂きたい。犯罪者が犯罪者の擁護してるだけだからね、こんなの。
 
 あ、そうそう話自体は驚きがないけど細かいところがすごく良くて、映画って2時間の中に色んなものを詰め込みたいからそういう細かい部分で語る必要があるのだけど、それがめちゃくちゃ上手くて。
 たとえば主人公の男の子が小学校とかも全然行かせてもらえなくて、中盤で一瞬だけ暮らしが落ち着いたときにフリースクールに通うようになるんだけど、そこでチラッとだけ映る鉛筆の持ち方が、もうホントおかしかったり。
 結局その生活も手放すことになるんだけど、ようやく自我が目覚めつつある少年が学ぶことの楽しさを知って「学校に通いたい」ってその生活を捨てることに対して、初めてって言っていいくらい母親に抵抗するのね。そこで母親は「あんた嫌われてるよ」「臭いって言われてるんだぞ!」「いじめられるだけなんだから辞めろ!」って詰めるのよ。
 これって母親が学校には「対人関係しかない」つまり「勉強をする場所として、まったく理解していない」っていうことを表しているわけで、そこからこの母親の背景がぶわーっと見える感じとか。
 あとはケースワーカの人から「お母さんから逃げて離れて暮らすって選択肢もあるのよ」って告げられることで、それは100%善意ではあるのだけど、そういう可能性があるからこそ「自分がいなくなったら母親はどうなるのだろうか?」って想像をしてしまって、むしろ関係性に囚われてしまうところとか。
 
 そういった見せ方がめちゃくちゃ上手い映画だった。楽しい映画じゃないし、んー、作品として得るものはたぶん無い。けれども私にとっては結構、いやかなり良い?良いは違うな、えーと、思うことがいっぱいある作品だった。
 個人的にはすごく良かった。別におススメはしない。そんな感じ。

※※※※※※※※※※※※※

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?