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一週遅れの映画評:『100日間生きたワニ』いや、カエルくん、キツイわ。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『100日間生きたワニ』です。

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 いやもうホントに、後半から登場するカエルくんがマジでキツイのよ。彼の不器用さと追い込まれっぷりにめちゃくちゃ泣いちゃう……あ、自暴自棄になった人間て、こうだわ。て感じで。
 前半部分のワニが死ぬまでのパートは割愛していいよね?正直ツイッターで大体見てるでしょ?いちおう映像化に関して言っておく必要があるのは「間の取り方」だよね。特にワニとネズミの関係において、めちゃくちゃ沈黙があるのよ。「ワニのセリフ」→(たっぷりと時間をあけて)→「ネズミのセリフ」みたいな感じで。
 これワニの実家が作中で差し込まれるんだけど、そこに「体操着と赤白帽を被ったワニとネズミの写真」が飾られているわけさ。まぁこれって二人が少なくとも小学校からの幼馴染だってことじゃん?それだけ長い時間を過ごした友達だと、会話で間をつめる必要があんまりなくて互いに無言の時間が多くなって、それが別に苦痛ではない(むしろ心地よい)関係になってる。
 他のキャラクターでも対ワニだと会話の間がしっかり取られていて。それはワニの人となりというか、彼との間に無言の時間が流れても、それが不安じゃないってことなのよね。
 
 それでまぁワニが死んでだ。そこに最近引越してきたカエルくんが登場するわけよ。
 こいつがまぁ~~~グイグイ来るっていうか、なんかこうやたら明るくコミュニケーションを取ろうとしてくる。ワニの死と直面したばっかりのネズミとかセンパイとかイヌとかにしてみりゃ「や、ちょっと今そういう気分にはなれんので……」って感じになる、それはわかる、すっごいわける。
 でもカエルくんにしてみれば「彼らが大事な友人/恋人を失った」ばっかりだってことなんて、知りようが無いじゃない?だからここにはそもそもの行き違い、行き違いってのもなんか違うな、立場?環境?の差がある。だからカエルくんと距離を取ろうとする気持ちも理解できるけど、フランクに話しかけても素っ気なくされるカエルくんも割としんどいなー、と思うの。
 ただそれを差し引いてもカエルくんのグイグイくる感じはウザいんだけどw
 
 でも普通は何回か「あ、距離詰められたくなんだな」みたいなのが感じ取れるリアクションされたら、引くじゃん。それなのにカエルくんまだグイグイ行くのよ。この時点で「あれ?」って思うわけ。「あれ?あれあれ?コイツ、コミュニケーション下手だな?」って。下手っていうか「無理してる」「焦ってる」みたいなのが透けて見える
 別に仕事があってとか、夢を追いかけてとかじゃなくて、特にツテもない場所へ急に引越してきたカエルくん。その背景にネガティブな空気が漂い出すの。だって無理して、焦って、下手な方法で友人を作ろうとしてるカエルくん。それだけ対人関係に飢えているのに、知り合いが一人もいない地域に理由もなく越してくる……そんなん「うわ、これ絶対”なんかあった”ってことじゃん」てわかる。
 
 それに気づくと、カエルくん、見ててマジでキツイのよ。たぶん何らかの事情があって……それはネズミとかも「互いに知らない事情がある」って点では同じで。だけどカエルくんは独りぼっちで、それで友達を作ろうとするんだけど、すげー無理してるのが見え見えで、たぶん本来はそういうコミュニケーションが苦手で、だけど焦っていて。
 このカエルくん、なんて生きるのがヘタクソなんだ。でもそのヘタクソさが「ウザい」方向に噴出してしまうから、頑張れば頑張るほど求めるものが離れていく、それでさらに追い詰められて。そういう悪循環にハマってしまいそうになってる。
 
 それが一番あらわれてるのが、カエルくんがバイトはじめたカフェにヘビの女の子がいるんですよ。このヘビちゃんに惚れて告白しようとする……いや相手、ヘビじゃん!?
 「睨まれたら動けなくなる」って言われるぐらい蛙にとって蛇は天敵だっていう生物としての前提ってやっぱりこういう造詣を選んだ以上は避けられないと思うの。それなのにカエルくんはヘビちゃんと二人きりになって、告白して、フラれるって、これもう完全に死ににいってるというか、婉曲表現の自殺とも言えるわけで。
 だからこのカエルくんがめちゃくちゃ自暴自棄になってる、本能的な部分がブッ壊れるくらい追い込まれていて「もう死んでもいいや」ぐらいの精神状態にあることがこのエピソードからすっごい伝わってくるんですよ。
 
 それでね、このカエルくんは今回の劇場版にあたって作られた新キャラなんだけど、このヘビちゃんは原作にいるのよ。ただ出てくるシーンが1コマだけなの!だからこの新キャラが「カエル」だっていうのは必然性があって。
 つまり「何らかの情緒が壊れているキャラ」が必要で、その「壊れ」を表現するのに出来るだけ原作にいるキャラを使いたい。ただそれを示すのにメインキャラクターと絡ませるわけにはいかないから、使えそうなサブキャラを原作から探す。蛇がいた、蛇との関係で「壊れている」を表現するには……蛙、だな。そういう思考があったのは間違いなくて。
 
 カエルくんは寂しくて不安でおかしくなってて、すごい特徴的なのがカエルくんてこう場面に登場するたびに「どもー、どもどもどもー」って言って出てくるの。これがもう必死で空白を埋めようとしているのがありありと表れていて、それが前半部分で描かれた「間をたっぷりあけても平気な関係を作れているワニ」の対比として、わかりやすすぎるくらい強調されてる。
 でも正直に言えば前半で描かれた「間」って、見てるほうが不安になるくらいなのよ。こう「いや流石に時間とりすぎじゃない?」って思うくらいには。だから私はきっとカエルくんの不安とすごく近いものを持っていて、でカエルくんがウゼーなと思ってしまうのは、その自分が抱えてる不安を突き付けられてる気がして、それで本能的にね(こっちはカエルくんと違って本能がブッ壊れてないからさ)避けたくなってしまう。
 でそれはネズミたちも一緒で、ワニのいなくなった穴が不安で。でもその空白を強引に埋められるのは「そこに空白がある」ことを突き付けられてしまことでもあるから、ネズミたちはカエルくんに冷たくすることしかどうしてもできない。
 
 それでそんなところでカエルくんがひと言
「俺って、なんかノリ、違いますかね」
 って言うの。もうさぁ、カエルくんだってわかってるんですよ、自分が嫌われてることを、ウザいと思われてることを。それでも彼の焦りが不器用さが「そうさせること」しか許さない、壊れてないと生きていけないぐらい追い込まれてなお藻掻き続けるしかない。それは作品前半と後半の「間の埋め方」の差に対するメタ発言でもあって。
 
 それでも、それでもね。ネズミ、センパイ、イヌたちは友人で、友人ではあったけどその関係を取り持っていたのはワニなの。だからワニが失われたあとにそこには「関係性の間」ができてしまって、それはそのままだと決して埋められな部分で。だから残された者たちの関係はそのままなら空中分解するしかない。
 それって死んだワニを弔う、お互いの思い出を持ち寄って彼の死からネズミたちが立ち直るためには、絶対に避けたいことではあって。そこに強引でウザいけどその「間」を不器用にだけど埋めに来るカエルくんって存在は、結果的に「ワニの死」を忘れないためには絶対に必要なんですよ。
 
 悲しみを忘却することは大事で、それでもその「悲しみ」を丸ごと忘れることではなくて、悲しみが生まれるその前提には喜びがある。ワニの死の悲しみを忘れることは必要だけど、ワニそのものは決して忘れてはならない。そのためにはワニを知っている誰かと誰か同士が繋がり合い続けることが必要で。
 で関係を継続していくことっていうのは、そのままでは不可能で。離れ離れになってしまう間柄を繋ぐ「新しいもの」が必要になる。
 
 思い出を忘れないこと、悲しみを癒すこと、新しく進んで行くこと。それは互いに排他どころか相互に関連して強化しあう、そういう繋がったものなんだ。そういうことをね、この作品では言おうとしてるんだと思いました。
 
 だからネズミとワニが一緒に日の出を見て食べたミカンは「102点」で、カエルくんとネズミが日の出を見て食べたミカンは「101点」で。100点と102点を「繋ぐ」その間にある101点としての(それは100の先の新しさでもあり、カエルくんという悲しみを忘れされてくれる友人であり、ワニを忘れないためのものでもある)カエルくんなんですよね。

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 次回は『竜とそばかすの姫』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


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