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一週遅れの映画評:『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』偽者だけど、本当の私。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ダンジョンズ&ドラゴンズ/アウトローたちの誇り』です。

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 うおー! 『ダンジョンズ&ドラゴンズ』ですよ! というか『D&D』ですよ、『D&D』! TRPGである『D&D』について話してるとき「GM(ゲームマスター)」って言うヤツは全部フェイク! こっちは「DM(ダンジョンマスター)」なんだよコンニャロウ!

 ……なんでこんなに勢いづいちゃってるかというと、「D&D」はかなり私のオリジンというか人格形成であったり、サブカルチャーに耽溺していく最初の頃に触れてる関係で、どーしても思い入れが先走ってしまうんですよ。
 1992年、私が10歳/小学5年生のときまで遡るんですけど、当時はずっと本を読んでるような子供でね。そこで『スレイヤーズ!』の1巻とかも当然のように手を出したのかな? そこで「すっげぇ! おもしれー!」ってなって、で本屋の同じ棚に「富士見ファンタジア文庫」ってレーベールが並んでるわけですよ。そこでとりあえず片っ端から手を出していくと、当時はまだ刊行数も多くないわけで、そこはライトノベル(当時はそんな名前はまだついてなかったかな?)だけじゃあなくてゲームブックがあったり、その流れでTRPGに触れた書籍があってですね。

 そこで出会ってしまうのですよ、私は。『D&Dがよくわかる本』ってタイトルの本に! その頃は(も?)小学生ぐらいの子供にとってはTRPGってやっぱマイナーな遊びで、最初に読んだときは「なんの話だ???」って感じなのよ、でもその本がすっごい説明が丁寧でわかりやすくて(というのも筆者がクロちゃんこと黒田幸弘なんですよね……というのがどれくらいの人に通じるのか全然わからんですが)それでこう、色んな情報を漁って……それでコツコツおこずかいを貯めて、売ってる場所を調べてついに入手するんですよ! D&Dの赤箱を!
 おい大丈夫か、赤箱とかどこまで通じんのよ? 1985年に翻訳された、D&Dの「スターター・セット」ってやつで真っ赤なボックスに入ってるから通称「赤箱」って呼ばれてるんですけど。

 ただ小学校では当然TRPGなんて伝わるわけなくて、中学に入ってやっと数名(八木タカシくん元気ですか?)遊ぶ仲間ができて、そこでようやくTRPGをちゃんとプレイできて。だけどその頃は『ソードワールド』と『GURPS』が全盛期で、『D&D』は「ルールサイクロペディア」っていう文庫版のルールブックがちゃんと出たにも関わらず全然遊べなくて非常に悲しい思いもしたわけですがw
 それでも中高一貫の学校だったから、そいつらと色々プレイして。だけどそれっていわゆる「TRPG冬の時代」のど真ん中だったりとかだったのと、大学入ってからはTRPGをやる友達とも疎遠になってしまって……って経緯をたどって今に至る。
 いや、細かい話をしていったら5時間ぐらいは余裕でできそうなんですけど、これは映画評なの!

 ただね、映画『ダンジョンズ&ドラゴンズ』を見てて感じたことと、当時の思い出が重なる部分があるんですよ。というのもあの頃はTRPGのゲーム設定でコミカライズがあったり小説があったりって、当たり前だったの。あの『ロードス島戦記』だって元はD&Dのリプレイからで(あれ? もしかして”リプレイ”って説明がいるのか? まぁ「TRPG リプレイ」で検索しなさいよ)、だから「ゲームの場面ではこうですよ」を「漫画とか小説にするとこういう表現になりますね」に変換するのは、当たり前であったわけですよ。
 だから映画『D&D』の話を聞くと「プレイヤー経験があるとあそこはきっとこういう判定でクリティカル/ファンブル出したなwとか、あぁあそこはDMが裁量でうまく裁いたなwとか思っちゃう」って感想が散見されるけど、それは恐らく日本のTRPG文化がゲームシステムと創作物の両輪で回っていた時代が長くて深いことと密接に繋がってるんですよね。

 で、今回の『D&D』がそういった感想を誘発してる大きな理由って、登場人物たちが「まっとうなヒロイックファンタジーのキャラクター”ではない”から」なんですよ。
 主人公はやさぐれたバード/ローグ、粗野な女戦士、気弱なソーサラー、人間嫌いのドルイドで。こう「高潔なナイト」とか「思慮深いウィザード」とかいったいわゆる正統派なキャラクター造形をしていないんですよね。

 だけどTRPGを実際にやったことある人とか、リプレイを読んだことある人、まぁ今どきは「動画で見た」って人も多いかな? そういう経験あればわかると思うんだけど、TRPGのプレイ中って8割ぐらいは結構しょーもない笑いが起きてしまうのよ。とんちんかんな行動してたり、ダイス目に翻弄されて間抜けなことになったり、DMが口を滑らせてシナリオ変更を余儀なくされたり、あるいは会話で進んでくゲームだから下らないジョークとか言葉遊びが飛び交う。そういったなかでプレイヤーが操るキャラクターは、どうしても「小説に出てくる英雄」みたいにはならないわけ。
 ただ、だからこそキャラクターを演じることに血肉が通うし、気持ちが乗っかる。そこで残り2割のシリアスだったり、かっこよかったりするシーンができたときの興奮と感動はひとしおなわけですよ。

 映画『D&D』の登場人物は、いかにもTRPGのプレイで実際に出てきてしまった(そういう事故的な側面を持った)キャラ造形をしている。だからTRPGを知ってる人はその背景にいる「プレイヤー」のことを想像してしまうし、自分や友人がやらかした(結果的そうなってしまった)面白プレイを重ねてしまう。それでさっき言ったような「ここでファンブル出しただろwww」って感想が自然に出てきてしまうのよね。

 でね、ここからすごく大事なところなんだけど。ついでに映画のネタバレに入るけど。
 キャラクターに「血肉が通う」って言ったじゃない? TRPGはゲームで、「役割を演じる遊び」なわけですよ。つまりフィクションだしそこにいる人物は偽者なわけさ。
 だけどプレイヤーはそのキャラクターになりきって自由に行動し発言できる。だからもちろんフィクションではあるんだけど、「自分とはまったく無関係」とも言い切れない部分がどうしたって生まれてくる。

 それでね。この映画『D&D』で主人公は妻を殺されて、まだ赤ちゃんだった娘を育てるのに仲間だった女戦士が手助けしてくれて……まぁ娘にとっては「育ての母」みたいなもんなわけさ。
 それで主人公は死んだ妻を生き返らせるためのマジックアイテムを手に入れるんだけど、その最後にある戦闘で敵のボスに女戦士が殺されてしまうのよ。
 例のマジックアイテムは一度使うと効果を失ってしまうから、主人公と娘は選択を迫られるわけ。亡くなった妻を生き返らせるか、仲間であり育ての母である女戦士を生き返らせるか……。まぁここDM視点だと、シナリオは「妻と呪いで死にかけてる領主の2択で、どっちを選んでもグッドエンディングにする(妻が生き返ってハッピーor自己犠牲の精神で良い領主を救った英雄)」だったのが、一番死なないと思ってた戦士がダイス目悪くて死んじゃったから急遽シナリオ変更したな! みたいなことも考えちゃうんだけどさw
 それはいいとして、結果として主人公と娘は「育ての母」である女戦士を蘇生させることを選択するのね。

 娘にしてみれば、自分を産んでくれたけど記憶にない母と、産みの親ではないけど育ててくれた母なわけじゃあないですか。そこで「育ての母」を選択する。ちょっと悪い言い方になるけど「思い入れのない本物」と「思い入れのある偽者」で、後者を選んでる
 つまりは「血肉の通った、自分とは無関係ではない人」を、より救いたい、傍にいて欲しいと願ってるわけですよ。これってプレイヤーにとって自分の演じてるキャラクターが「フィクションで偽者だけど、自分とは無関係じゃない」っていうのと重なっている。

 だからこの映画『D&D』は、まず物語や登場人物がすごくTRPGライクで素晴らしいんだけど。それに加えて「TRPGで遊ぶことって、キャラクターを演じる遊びに夢中になれるのは、こういうことだよね」ってところまで射程を持ったメッセージを最後に与えてくれてるんですよ。
 そういった意味でこの映画『D&D』は紛れもなく「【TRPG】の映画化」であったと思います。すっごい楽しかった、久々にTRPGやりたくなりましたね! 本当に楽しい映画だしリプレイでした!

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 次回は『世界の終わりから』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの13分ぐらいからです。


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