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一週遅れの映画評:『映画ドラえもん のび太の地球交響曲』そしてここから音は響く。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かして配信で喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『映画ドラえもん のび太の地球交響曲≪シンフォニー≫』です。

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 今年のドラえもん映画、かなり良かったです。うん、めちゃくちゃ良かった、歴代ドラ映画でも個人的には完全にTier1でしたよ。
問題がないわけじゃないの。特に気になるのがふたつ、前半が割りとタルいのとキャラクターのネーミングね。ただなぁ……今回のドラ映画、かなりちゃんと「SF作品」として作られているんです、後半で散りばめていた伏線をぐわーっと回収してキチっと着地を決めている。
 えっとね、作中で起きたトラブルを後半で解決するにあたり、前半にあった要素が利用される。その際に科学的ガジェット(それか少なくとも作品で提示されたルール)が要素と解決のハブになっていると「うぉー、SFだなぁ!」って私は嬉しくなるんですが、今回は完全にそれを達成している。その代わりに要素撒きというか準備段階の前半がタルいのは仕方ないところがあるんですよね……。

 今回は(も?)のび太が音楽の授業でリコーダーを吹くことになるんですけど、どれだけ練習しても「ぽぺー↑」みたいなリコーダーとしては異質な音になってしまう。ひとり土手で練習してて「ぽぺー↑」とかやってると、謎の少女が笑いながら現れてのび太の笛に合わせて歌ったり踊ったり、気がついたら姿を消してたりする。まぁいつもの『ドラえもん』ぽい感じですわね。
 それはそれとして音楽の授業が憂鬱なのび太は「あらかじめ日記」というひみつ道具をドラえもんから騙し取る。このひみつ道具は、書き込んだ内容が必ず実現するという「もしもボックス」すら生ぬるいレベルで。そこにのび太は「きょうは音楽がなかった。よかったです」で書き込む。
すると翌日、世界からありとあらゆる「音楽」が消えるっていう、効果範囲と効果深度が尋常じゃないんですけど? まぁそうやって「音楽」が無くなったことで、街の人々の精神がささくれて至る所で小競り合いが勃発してしまう。慌ててドラえもんは「あらかじめ日記」の該当ページを引きちぎり、世界には「音楽」が戻りました。
 さてさて、一方のび太のリコーダーで歌ってた女の子。彼女は音楽をエネルギー源とする技術で発達していた星があって、そこの唯一の生き残り。滅んでしまった故郷の星から宇宙船で逃げ出して、沢山のロボットと一緒に放浪していたんですね。
その星を滅ぼしたのが「ノイズ」と呼ばれる、アメーバとかスライムみたいな恐らく知性は持ってない宇宙生命体。「ノイズ」の弱点は「音」で、基本的に音が溢れている場所には近づけない。ただ一度でも定着してしまうと、自分たちの弱点である「音」の発生源を破壊しながらものすごい勢いで増えて、最終的には星をも滅ぼしてまう。
 音楽をエネルギーとする星では、エネルギー供給を支配する層が出てきたことで自由に「音楽」が流せなくなってしまった。そこ発生した無音の瞬間「ノイズ」が定着してしまった。そしてのび太が書いた「きょうは音楽がなかった」によって、地球にも「ノイズ」がやってきてしまう……。

 ていう感じのお話なんだけど。えっとね、この作品の根底にはあるのが「人々の営み、ひいては命そのものが広義の音楽だ」ってことなのね。
 本作だとお風呂がめちゃくちゃ重要な役目を担っていて、まずのび太とドラえもんが一緒にお風呂に入ってるとき、のび太がなんとなく鼻歌を歌うのね。そこで「お風呂だと音が響いて上手に聞こえるね」ってドラえもんが言うわけですよ。そこから話が進んで、のび太がガチでリコーダーを練習しなくてはならない場面がやってくる。そこで彼は真夜中、ひとりで浴室に来て練習するんですよ。
つまりここでは、なんてことのない日常(お風呂で鼻歌を歌う)から「音が響く」つまり音楽の要素をひとつ発見する。そこから今度は意図的にその環境を利用して音楽をやろうとしている。ここで無意識に流れ出した音は、意識することで「音楽」になるということが示されるわけ。

 終盤、「ノイズ」を撃退するためにのび太たちと音楽ロボットが力を合わせて演奏会を行うんだけど、一歩及ばすコンサート会場が破壊されてしまう。コンサート会場の効果で音を外に届けられてたんだけど、それが無くなってしまいのび太たちは宇宙空間に放り出される。当然、空気のない宇宙空間では音が響かない、自分の声は誰にも届かないし、誰の声も聞こえない。
 いや、ここが無茶苦茶すごくて。ほんの1分ぐらいの時間なんだけど、完全に無音の映像が流れるんですよ。「音楽」が題材の作品だからこそ、この耳が痛くなるくらいの「無音」がものすごく刺さる。さっきまで楽しく演奏していただけに、音が無いことの寂しさとか恐ろしさが一層迫ってくる。
背景は宇宙の黒で、誰の声も聞こえなくて、しかも「ノイズ」が襲いかかってくる。この場面はものすごく「死」を思わせるんですよね。

 ですが、そこに突然「トントントントントン」ってどこかで聞いたことがある音をのび太は感じる。まな板の上で軽快にネギを刻む包丁の音、それに続いてふつふつと鍋の中でお湯が沸く音、ちゅんちゅん小鳥の鳴く音、アスファルトの上を走る車の音、何気ない会話をしてる音。
いくつかのひみつ道具とこの数日で行ったことによって、宇宙空間に音が響くようになったんですね。そのことにより、地球の上で鳴っている生活音が宇宙空間に響いてのび太の耳にまで届いている。
 いきなり聞こえてきた音に「ノイズ」は怯んで、その隙をつくように楽団は再び演奏を再開し、ついに「ノイズ」を撃退することに成功するわけです。

 でね、ここで前半と終盤でガラッと変わってる部分があるんですよね。のび太があらかじめ日記に「音楽がなかった」って書いたとき、音楽が消えた世界で人々は苛立ってしまっていた。なのにこの終盤では、その音楽が消えた世界でも普通に流れていたはずの生活音が「音楽」として逆転の契機になっている
思い出して欲しいのが「お風呂」で起こったのび太の意識変容で。つまり無意識の鼻歌が、意識することで「音楽」であることを発見する場面があったわけですよ。
だから最初のび太は「音楽」を否定していた(まぁ、あらかじめ日記はもしもボックス級のパワーを持ってるので「音楽という概念から消した」って見かたもあるけどねw)から、人々の会話や街の物音が自然発生した「音楽」ではなく苛立ちを加速させるものになっていた。
一方で無意識の鼻歌を「音楽」だと意識できるようになったのび太なら、ただの物音(包丁の、沸騰の、小鳥の、車の、挨拶の音)を「音楽」として捉え直すことができる。あー、そうか、気づいてなかったけどこれ「のび太の成長」もきちっとそうやって描いているのか。

 さっきも言ったように無音の宇宙空間、つまり「死」に投げされたのび太を「日常の物音」が救っていく。ただそこで生きているだけで、本人はそうだと思っていなくても、発せられる音に耳をそばだてる人がいれば、それは「音楽」に変わっていく。それって生きていることそのものが「音楽」だということじゃあないですか。
無音の「死」に対して、「生」の音楽で対抗する。このアングルを成立させるの、めちゃくちゃすごいですよ。一歩間違えば凡庸なメッセージになってしまうのを、SF的なガジェットと伏線回収の巧みさで第一にストーリーとして面白くしてるんだもん。
 いやぁ、過去の『ドラえもん』映画の中でもかなり好きです。

 ただなぁw こういう「音楽」がテーマの作品だと、敵の名前が「ノイズ」になることって往々にしてあるけど「ノイズミュージック」ってのがあるぐらいだから、やっぱりこういうネーミングにはどうしても引っかかっちゃよね。
一応「音楽として意識された生活音」とかを含むのが「ノイズミュージック」で、「音楽として意識されていない音」が「ノイズ」みたいな割り振りを、今回の話ではできなくもないけど……まぁちょっとした瑕疵ってことで飲み込んでおくかね。

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 次回は『ゴールド・ボーイ』評を予定しております。

 この話をした配信はこちらの15分ぐらいからです。


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