見出し画像

一週遅れの映画評:『ザ・スイッチ』愛は姿にとらわれない。それは悪と同様に。

 なるべく毎週火曜日に映画を観て、一週間寝かしてツイキャスで喋る。
 その内容をテキスト化する再利用式note、「一週遅れの映画評」。

 今回は『ザ・スイッチ』です。

画像1

※※※※※※※※※※※※※

 監督クリストファー・ランドンの『ゾンビワールドへようこそ』って作品がめちゃくちゃ面白くて、個人的には『ハッピー・デス・デイ』シリーズよりも好きなんだけど、今回の『ザ・スイッチ』は私の中で『ゾンビワールド』と同列か一歩抜きんでてるぐらい良かった。ホラーだしちょっと「びくっ!」っとなるシーンがあったり殺害シーンとかは多少スプラッタ味はあるけどゴアってほどじゃないから「ホラーはマジで全然ダメ」ぐらいじゃなきゃ見れるかな……『13日の金曜日』が大丈夫なら(実際この作品の出来事は”13日の金曜日”に起きてるから、完全にそれは意識した作りになってるんだけど)問題ないくらい。
 
 ストーリーとしては、とある街で都市伝説的に語られる連続殺人鬼ブッチャーが10年ぶりに復活し次々に学生を血祭りにあげていく。その殺人鬼が手に入れた呪いのナイフが持つ魔力によって、次のターゲットとなった女子高生ミリーとブッチャーは心と体が入れ替わってしまう。24時間以内に再び入れ替わりの儀式をしなければ、永久に殺人鬼の体で生きるしかなくなることを知ったエミリーは指名手配中であるブッチャーの姿をしたまま、自分の体を見つけ出し時間内に儀式を遂行しなければならない。さてその顛末やいかに……。って感じで。
 
 これ何がいいって「肉体に精神が引っ張られる」けれど「強い意志は肉体を凌駕する」を同時に、それも”意地悪く”描いてるってとこで、主人公のエミリーは軽くイジメられてて同級生の女子からは「ダサい、貧乏」ってネチネチ言われるし、男子からも「ブサイク」扱いを受けてジュースを投げつけられたり、急に耳元で大声出されて驚かせられたり、まぁそこそこ酷い目に合ってるわけ。
 それで殺人鬼の姿に入れ替わったエミリーは自分をイジメていた男子の襟首を掴んでグーッと持ち上げてさ「次に誰かをイジめたらタダじゃおかないぞ」って脅すわけ、それでその男子はしょんべん漏らしながら「すいません!もうしません~!」と泣いて謝る。中年のおっさんになって、というか指名手配犯の姿になってマジで最悪だと思ってるエミリーなんだけど、でもその肉体が持つパワフルさ無敵さ(それこそホラーの殺人鬼として一般的な成人男性よりはるかに強くて打たれ強い)に順応して、それを利用しはじめるの。いま話した恐喝シーンもだし、中盤で知人の生徒を追いかけるため木製の柵をブチ破って突進する場面があるんだけど、こことか完全にそういうホラーもので被害者を追い詰める殺人鬼の挙動そのまんまなのね。
 これってまだ24時間も経っていないのにエミリーは「殺人鬼としての身体」を理解し、活用しはじめている。それって「ずっとこのままの姿でいたなら、最終的に彼女も殺人鬼になるかもしれない」って可能性を匂わせている。
 
 それとは逆に女子高生の体に入ったブッチャーは、精神的にシリアルキラーのままだからバンバン人を殺そうとするわけ。それでも今まで無敵のパワフルボディだったのにいきなり貧相な女子高生になったわけだから上手く殺せない。おっさん教師に掴みかかっても引き剝がされて投げ飛ばされたり、ドアを破って襲い掛かろうにも全然破壊できなくて「なんだこの弱っちい体は!」って文句垂れるのね。
 それでも殺意マンマンだから、その肉体的ハンディを物ともせずどんどん人をぶっ殺していくのよ。足りないパワーを創意工夫と折れない心、それとこれまでに培った殺しのテクニックを駆使して……って言うとなんかヒーローっぽくなっちゃうけどさwまぁなんやかんやで殺害数を積み重ねていくのね。
 
 これってエミリーは「殺人鬼の肉体を得ることで暴力性に目覚めつつある」のに対し、ブッチャーは「強い殺意で肉体的ハンディキャップを乗り越えていく」という構図になってるわけ。ほらこうやって言うとエミリーの危うさとか、さっき言ったようにブッチャーがちょっとヒーローっぽく格好良く聞こえちゃったりするじゃん、それってすっごい底意地の悪いところで。ただそうやって相対化していけるところに、元から陰鬱なものを描くホラーってジャンルの醍醐味があると思うのね。
 
 それで、これは私の感じた問題系ではあるんだけど、この構造ってフェミ/アンチフェミ批判にも繋がっていると思っていて。例えばアンチフェミってまぁ男性の方が多いわけじゃない根本的に。でもそれに対して「生まれつき持ってる肉体の頑強さに引っ張られてないか?」っていう警鐘を鳴らす。
 だけどそれと同時に「精神的な暴力性は肉体に関わらず発揮されると恐ろしい」っていう一部の攻撃的フェミニストに対する批判として機能している。
 
 たぶんこれって考えすぎじゃないと思うのは、前半からエミリーに協力してくれる親友の一人がゲイだったり、後半で味方になるエミリーが片想いしてる男の子……実は両想いだってことが明らかになるんだけど、その子とエミリーがいい感じになるのよ。それで男の子はキスしようとするの、エミリーがまだ殺人鬼の姿のままなのに。
 ここで描かれていることって「愛は姿形にとらわれない」だからめちゃくちゃ感動的シーンなんだけど、やっぱこの作品はホラーで、その根底には愛と同等のものとして殺意や悪意があるのね。だから「愛は姿形にとらわれない」はそのまま「悪は姿形に左右されない」と読み替えることができるわけ。ここでもベースにそういったネガティブさがあるホラーってジャンルの良いところがあらわれていて、そういったところがこのクリストファー監督がホラー映画監督として素晴らしいところなのよ。
 
 それでね、話はラストに飛ぶんだけど。
 一応儀式はなんとか成功して(いやここにもホラー映画らしい「わかってわいたけど、やっぱちゃんとやってくれると嬉しい伏線回収」があったりして実にいいんだけど)エミリーは元の姿に戻り、ブッチャーは逮捕されました。まぁでも当然のようにブッチャーは警察から逃げ出しエミリーの家族に復讐しようとする。だけど撃退され、最後にエミリーが背中からブッチャーを木の杭で串刺しにしてついにトドメを刺すのね(この「木の杭で串刺し」って吸血鬼を殺す方法で、ひいてはホラーの敵を「倒した」っていう記号的サインでもあるわけさ)。
 ここ!ここがすごいよくて。ブッチャーはずっと変わらず殺人鬼としての行動を貫く、それに対してエミリーは殺人鬼の体に入ったことにより「暴力が持つ意義」みたいなものを手に入れた。だから作品冒頭ではイジメに対抗できずやられるばかりだったのが、このラストでは殺人鬼を倒すまでの力を発揮できるようになる。
 これってつまり「変われるものは変われないものに勝つ」を意味しているわけで、ホラー的には「死を乗り越える生の力」でありメッセージとしては「変われることの強さ」であるわけで、最後にそういう意味をしっかり込めてくるのが本当に良いな、と思いました。
 
 じつは今年映画14本目なんだけど、初洋画で。ここまで邦画アニメ韓国映画ばっかだったんだけど、久々の洋画でめっちゃ良い作品が見れて嬉しいですね。いやーホント少し怖いぐらいなら平気って人には是非オススメしたいな。

※※※※※※※※※※※※※

 次回は『名探偵コナン 緋色の弾丸』評を予定しております。

 この話をしたツイキャスはこちらの14分ぐらいからです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?