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指揮の心得 〜管理するか委任するか〜

どうもこんにちは。コードタクトというEdTechの会社を経営しながら、琉球フィルの指揮者をしている後藤です。

社長をしながら指揮者をしているので珍しがられることが多いです。せっかくなので指揮とリーダーシップについて、私の師匠からの教えを自分なりの解釈で文書にしてみます。

斉藤指揮法教程

と、本題に入る前に、指揮を語る上で欠かせない素晴らしい本があります。

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これは小澤征爾の師匠である齋藤秀雄が書いた、世界初といえる指揮を体系的にメソッド化した本です。

この本が出るまでの指揮法は「習うより慣れろ」で、とにかく現場でオーケストラを振るうちに勘所を掴むような方法しかなかったと聞きます。

斎藤先生がヨーロッパに留学し、様々な指揮者の動作を分析、分類し名前をつけ斎藤メソッドとして完成されました。それを記したのが「斎藤指揮法教程」です。

日本人指揮者がクラシック音楽の文化圏でもないのに、指揮者コンクールに優勝したり、海外で活躍できるのは、この斎藤メソッドのおかげと言っても過言ではありません。

私も高校生の時から斎藤メソッドを習い、プロのオーケストラを振らせて頂けるようになったし、今は20人ほどの生徒の皆さんに斎藤メソッドを教えています。

ちなみにこの斎藤指揮法教程は強烈に難解です。


指揮の動作を文書で表現するのですから、難解なのは当たり前かもしれません。独学ではほぼ不可能と言っても良いと思います。

そして、あくまで斎藤メソッドは指揮の振り方、つまり筋肉の使い方について書かれた本で、音楽について書かれた本ではありません。

なので、指揮者を目指すためには、他に和音の関係についての理論である和声学や、複数の旋律の関係についての理論である対位法などの理論的な知識と、楽器演奏法についての知識、さらに団員をまとめ上げるリーダーシップやマネージメント、カリスマ性などが必要とされています。

だいぶ本題と逸れました。

今回は斎藤メソッドにはない部分。リーダーシップにおける管理するか委任するかという点について考えてみたいと思います。

管理するか委任するか

まずこの2つの動画を見てください。

こちらがリッカルド・ムーティというイタリアの指揮者のカヴァレリア・ルスティカーナという曲の演奏。

そして、こちらがジョルジュ・プレートルというフランスの指揮者で同曲の演奏。


どちらも素晴らしい指揮者で大好きなのですが、アプローチが180度違っています。

ムーティの指揮は、私はこうしたい!こういう音楽なのです!という思いが細部まで宿っているように思えます。テンポ、強弱、フレージング全てが指揮から見て取れます。

逆を言うと、奏者からしてみると、そのように演奏するしかないという指揮をしています。つまり管理する指揮と言えると思います。

ちなみに、ムーティは帝王というあだ名が付いています

一方、プレートルはどうでしょう。正直、テンポが全くわかりません(笑)

そのかわり強烈に情景が浮かび上がってきます。プレートルの指揮は、音楽ではなく空間が創造されているように思います。奏者は、その空間の中で自由に演奏しているのです。

もっと言うと、釈迦の手のひらの孫悟空という境地なのかもしれません。奏者が自由に演奏しているように見えて、実は指揮者の手の内であるという環境を作っているのです。

情報の非対称性とリーダーシップ

音楽のゴールは素晴らしい演奏をすることなので、管理でも委任でも状況に応じて選択すれば良いと思いますが、企業でもそうであるように指揮者も徐々に管理型から委任型になってきているように感じます。

その原因は情報の非対称性にあるのではないかと私は考えています。

昔のオーケストラの指揮者が帝王のような管理型の存在だったのは、フルスコアを指揮者だけが持っていたからです。昔は、指揮者だけがすべての楽器パートの情報が書かれたフルスコアを持ち、奏者は自分の演奏するパート譜のみを持つという感じでした。

つまり、情報の非対称性です。情報の非対称性があると、そこに教える教わるの上下関係が必然的に生まれます。

ちなみに、学校教育も同じです。知識を持っている先生と、持たない生徒。その情報の非対称性が、学習者主体の学びに移行できない原因の1つだと思っています。

テクノロジーの発達によって、簡単にフルスコアを共有できるようになったので、情報の対称性が成立するようになりました。そこで、今の指揮者は奏者との対話を通して、奏者の能力を最大限活かすにはどうするかという役割に変わってきたのだと思います。

指揮者は様々な心理テクニックを使って、奏者から自分が求める音を引き出そうとしているのです。そのテクニックについては、またどこかで。



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