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宇宙歯学は究極の予防歯学

宇宙環境における人体への影響と聞いて、微小重力に伴う体液シフトや筋肉量の減少、宇宙放射線による被ばくを思い浮かべる人は今や少なくないだろう。
実は歯科疾患も宇宙において発症しやすく、重大な疾患にも繋がるのだが、認知度が低く軽視されているのが現状である。
今回は東京医科歯科大学財津 崇先生に、「歯科」という分野から見た宇宙医学=宇宙歯学について教えていただいた。

財津先生は宇宙航空研究開発機構(以下JAXA)での研究員生活を経験し、現在はJAXAの健康管理、国立極地研究所の一員として日本人宇宙飛行士南極観測隊隊員の口腔内の状態の確認・健康管理を行っている。

宇宙における歯科疾患のリスクと原因

NASAの報告によると、宇宙で発生する歯科疾患のうち、虫歯(う蝕)が圧倒的に多く、歯周病(腫瘍)と歯髄炎が次いで多いことが分かっているようだ。

宇宙で虫歯と歯周病が発症する背景にはいくつかの原因がある。
宇宙ステーションのような閉鎖環境では、歯を磨くモチベーションの低下が起こると考えられており、宇宙には歯科専門の医者もいないため歯科疾患を見極めることが難しい。
専門家がいないため、歯のケアは各宇宙飛行士の技術に依存しており、技術が不十分だと歯科疾患を発症するリスクは上がる。

さらに、宇宙での食事-いわゆる”宇宙食”も原因の一つである。
宇宙食の条件には、安全性や保存性が高いこと以外にも、「食べる際に危険要因が発生しないこと」というものがある。宇宙ステーションには精密な機器がたくさんあり、また、一つのミスが命取りになってしまう。そのため、飛び散らないよう粘性が高められ、とろみが付加されている。
宇宙食のように、軟らかい食べ物(軟食)は唾液量が低くなり、唾液の流れも減少するため、普段は唾液によって流される歯周病細菌が増殖しやすい環境を作ってしまうと考えられている。

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財津先生によると、宇宙において歯の健康が重要であると言われる大きな要因は、「自然治癒ができない」点にあるそうだ。
宇宙で歯科疾患を発症した際に備えて、小さいキットとマニュアルも宇宙ステーションに保管されているものの、簡単な処置のみ可能となっている。
激しい歯痛が起こると作業はおろかじっとしていることさえできなくなる。
過去には、96日間の滞在で、最後の2週間耐えがたい歯科の痛みを訴えた飛行士もいたようだ。

貴重な宇宙飛行士が、宇宙で与えられた使命を全うできるよう、上記以外にも打ち上げ前の食事管理や、打ち上げの90~30日前や帰還後の歯科検診が行われている。
それでもまだ歯科関連のデータは少なく、対策は不充分なのだ。

南極と宇宙の共通点

そのため、「Mars500」という火星環境を模した環境での500日滞在や6週間のベッドレスト生活をはじめ、宇宙環境を模擬した実験が様々な方法で行われている。
閉鎖された極限環境という意味では、財津先生が歯科の健康管理を務めている南極観測隊隊員の拠点である昭和基地も同様である。

南極へ向かう砕氷艦「しらせ」には治療を行う歯科医師が1名いるが、昭和基地には不在となっており、2名の医師が歯科の対応を行うようになっている。
また、1956~1999年の報告によると、歯科疾患は外科、内科に次いで第3位の発症率となっているものの、これまで十分な対応は実施されていないのが現状であった。

そこで、南極越冬医師への歯科訓練の強化や遠隔診断による対策が重要なのだが、以前は大学の歯科処置室の見学のみで、普段使用しない特別な器具の操作実習もなされていなかった。
現在では、東京医科歯科大学にて実施される講義や実習、研修マニュアルの作成により、治療経験のない医師でも十分に対応できるよう教育が行われている。
さらには歯科口腔内カメラを用いて、東京医科歯科大学の診断チームと連携することで遠隔診断も実施されている。

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どこでも誰でもできるセルフケアを普及させる

対策の強化は宇宙でも行われている。
冒頭で挙げた通り、口腔内のケアは個人の技量頼みであり、すぐに歯科医に治療してもらうことのできない宇宙ではこの課題が重大である。
現在は、打ち上げ前に歯科医が歯科の基礎知識を宇宙飛行士へ教育し、宇宙飛行士が自分で口腔内の動画を撮影し、自分で歯の健康状態を判断するという習慣づけをするための「口腔セルフケアプログラム」が開発されている。
南極で実施している遠隔診断も宇宙への転用が見込まれている。

講義では、歯科疾患の原因となる細菌を唾液で流しやすくするよう、唾液線マッサージや舌体操というものを教えていただいた。
どこでも誰でもできるセルフケアが浸透していけば、日常生活でも南極でも宇宙でさえも歯科疾患のリスクを格段に下げることができるだろう。

宇宙歯学の発展が宇宙進出への鍵

宇宙飛行士という数少ない人のために、なぜここまで徹底して健康管理をするのかという疑問に対する、財津先生の「今後の人類の新たなステージへの課題をつぶしているという意味合いが強いのではないか」という考え方が非常に印象的であった。
私は将来、現在の宇宙飛行士のように選ばれた人間だけでなくもっと多くの人々が宇宙へ行く時代になることを願っているが、そのためには宇宙・地上双方向での歯科における課題への理解と対策の強化が必要不可欠であると強く感じた。

宇宙についても、宇宙空間における私たちの身体の変化についても、私たちはまだ何も知らない。私自身、恥ずかしながら宇宙における歯科関連の課題は今回初めて知ったものがほとんどであった。そんな私たちに出来ることは自分が無知であることを自覚し積極的に「知ること」、そして知ったことを「伝えること」だと思う。
より安全に人類が宇宙へ進出できるようになるために、より多くの人が健康で過ごせるように、これからも宇宙歯学について知り続け、伝え続けていこうと思う。

記事執筆:九州大学大学院 生物資源環境科  中村 太一

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グラレコ作成:長崎大学 医学部医学科  柳下 香織

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