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頂き女子りりちゃんの価値観と現代資本主義で満たされないもの ~「りりちゃん=おぢ」である~

頂き女子りりちゃんという人物が話題になってどのくらい経つだろうか。既に多くの人が、その名前を知っていることと思う。

おぢ(=おじさん)から金を巻き上げ(総額1億5000万円以上)、その方法を記した詐欺マニュアルをnoteで販売しており、先日、詐欺ほう助罪で名古屋地裁から懲役9年・罰金800万円の実刑判決を受けた。

さて、事件が明るみになってからというもの、りりちゃんが金を巻き上げる方法の心理学的な分析や、詐欺に引っかかったおぢについてなど侃侃諤諤の議論がSNS上を中心に広がっていた。

また、りりちゃんに同情的な考えで、ひっかかるおぢと、このような行動が起こる理由の存在している社会への批判(ホストが真の悪であるというような)もあったし、それと対立するように、ひっかかるおぢは被害者だから批判されるべきいわれは全くなく、優しいおぢをだましたりりちゃんは大悪人だ、というような意見もあった。

どれもそこそこ的を得ていて、見ている分には面白かった。

さて、私SGはこの件についてどう感じていたか、ということについて今回は少し書いてみたい。というのも、最近りりちゃんのマニュアルの1つを入手して読んでみたところ、当初から私の感じていた推測が正しかったような気がしてきたからだ。

詐欺を行うにあたって、重要なことの一つは、本人に罪悪感があるかどうか、ということだ。例えば、いわゆるサイコパスであれば、金をいくら巻き上げたところで罪悪感を覚えることはないはずだ。りりちゃんの場合、罪悪感はあったと思われる。ただその罪悪感を引き受けて、おぢに夢を見させつづけることが良心的な行為であると、りりちゃんは考えていた可能性がある。

マニュアルを見ると、りりちゃんは、「ギバーおぢ」と名付けたタイプのおぢから金をたくさん頂いていたようだ。最初は少額で、次第に大きな額まで。ギバーおぢは、いわゆる嫌われがちなおぢではない。

つまり、ハラスメントをしてくる、自己中心的で、ウザい、おぢではない。そういう人は狙ってはいけないというのだ(これをテイカーという)。むしろその逆で、あまりモテてこなかったが、優しくて、人を助けることに喜びを感じてしまう、そんな感じのおぢこそがギバーおぢであり、ねらい目なのだ。

そして、ここからが重要なのだが、りりちゃん自身がギバーおぢのように振舞ってきた過去があるということだ。多くの男に騙されて金を渡して、それが返ってこなかった経験があると思われる。

りりちゃんは、ホストに貢ぐお金を得るために頂き女子をしていたと報道されており、それはおそらく事実だ(マニュアルにもそう書いてある)。ただ、ホストというのは合意して金を貢ぐわけだ。ファンタジーを前提にした空間で、遊ぶということが合意されている。

さて、りりちゃんは、自分が過去に金を渡した男からどんな目にあっていたのか。それがマニュアルには書かれていた。それは、金を渡したら態度が悪くなり傷つくようなことを言われて、見捨てられたというのだ。

りりちゃんは、おぢから金をもらった後にも信頼関係構築としていろいろなアフターケアを行うことを推奨している。りりちゃんは、自分から金をだまし取った男のようにはなりたくないのだ。

おぢに通常なら得られないであろう、若い女の子からの頼られという幸せを与え、その夢を壊さない努力をすること、これがりりちゃんの手法なのだ。これはおそらく、りりちゃんからするとかなり良心的な行為だ。もちろん、嘘をついてお金をだまし取っているのだから、通常の資本主義的価値観では非常に悪いことだ。私もりりちゃんの行為は非常に悪質だと思うし、刑罰も妥当なものだと思っている。ただし、りりちゃんの価値観は多くの人のそれとは異なっているのだと私は感じている。

りりちゃんの価値観では、実際お金はそこまで重要ではない。いや重要なのだが、それはホスト空間というファンタジーの中で自己実現を果たすためのものであり、お金によって得られる病んだ快感のようなものがそこにあるのだ。仮初でも、いやだからこそ、安心して癒しを与えてもらえる空間がそこにある。それはもちろんホストに自分が癒してもらうのと同時に、自分にあるギバー性を満たしてあげる行為でもあるのだ。ホストを助けることは彼女にとって意味のある行為であり、生きがいとなり得るものだ。

さて、その感覚を得るために、世間のおぢに癒しを与えることで対価としてのお金を頂くことがりりちゃんのような頂き女子の行動だ。そしてその癒しは、お金を奪ったらそれでおわりのようなものではなく、引き続き夢を見させる。十分に金を引き出した後でも完全に関係性を断つのではなく、時々はやり取りをしながら徐々にフェードアウトする。これは、かなりの労力であり、本人の価値観としては、世の中の病みへの癒しの流れを作っているとさえいえるかもしれない。つまり、ホスト的な空間でないところに、ホスト的空間を生み出して頂きを行っているということだ。

りりちゃんはマニュアルの中で、お金をもらってただラッキーと思うようなのは不適切だという趣旨のことを書いている。なけなしのお金の中からおぢが貢いでくれる時に感じているであろう不安感、こういったものを引き受けたうえで、自分にとって意味があるものにそのお金を使わなければならないのだ、その覚悟を持て、と。これは、自分から金をだまし取った男になかったものであり、これを守って頂きを実行することが、おぢに幸福を与える救済になるとさえ考えているのだろう。

まとめる。りりちゃんは、ギバーおぢとしての価値観を持ち合わせ、それで嫌な目にあってきたからこそ、そうでない(本当は自分がそうされたかったような)癒しをおぢに与える対価として頂き行為を行い、それをホストでギバーおぢ的な自分の感覚を満たすために使っていた。これは、りりちゃんの価値観の中ではむしろ良心的でさえあった、ということだ。

これを踏まえると、資本主義的な価値観はどこに行きつくのかということを考えさせられる。何かが足りていないのだ。

おぢはある程度資金力があると思われるから、ある程度高学歴で、ある程度給料の良い会社に勤め、比較的おだやかな良い人生を送ってきた可能性が高い。それは資本主義的価値観では、悪くない人生だ。しかし、おぢにとって、頂き女子によって与えられた仮初の喜びは、資本主義的価値観の中で労働によって手に入れたお金を渡したくなるぐらいには大きな喜びだったのだ。

比較対象として、売春や風俗といった仕事が挙げられる。これらでは主に性的サービスが行われ、その対価としてある程度高給(いわゆる昼職と比較して)が支払われる。だが、りりちゃんは性的サービスを提供せずとも、これらの行為よりも多額の金額を手にすることができている。

ここから考えられるのは、現代社会において、いわゆる男性の性欲(これは強い欲求の例として挙げた)よりも強力な欲求があるのではないかということだ。それは、誰かの力になりたい、誰かを支えたい、自分の生きる意味を感じたいといった欲求だ。そしてそれは老若男女問わず存在する(りりちゃんは若女、おぢは老男)。

いくら資本主義的に金を手にしても、それは本質的に手段でしかない。ただそれを蓄えていても、よい使い道がなければ意味がない。意味がある使い道は、その手段で買える物質的なもの、高級な何か、そういうものでは実はない。そうでなくて、ただ人に愛され、生きている意味を感じられること、そういうことが圧倒的に不足している、そんな歪みがあぶりだされているのではないだろうか。

それに非常に敏感で、それはお金よりも重要なんだとある意味で気づいてしまったことが彼女の不幸だったのかもしれない。その夢を壊さず、壊されずに生きることが、りりちゃんの価値観であり、それは悪いことではない、と思いたかった。それがりりちゃんの本音であり、この社会の不足物なのかなと思う。

だから、りりちゃんはもちろん悪いし、もしかしたらホストも悪いし、ひっかかるようなおぢも悪いかもしれない。ただ、真の悪はこの社会の価値観や状況で、それによって生み出される人間心理の歪みの現れがこの事件なのかもしれない。




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