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ファンとしてのキャリブレーション。

私は製造業に従事している。
製造業で求められるものは大量生産する上でその品質の担保である。
日々大量に同じ品質のものを生産しなければならない。
それを可能としてるのが数々の測定器である。
例えばボルトひとつにしても決まった強さで締め付けることが求められている。
ただ一目見てこのボルトがどれくらいの強さで締め付けられているかを理解できる人間はいない。
その為トルクレンチという機械を使用し、そのボルトがどれくらいの強さで締め付けられているかを確認し、品質を保証している。
しかし、このトルクレンチも機械であり、一生ものではない。
使えば実際の数値と測定値にズレが生じることもある。
それでは正しく測定ができない為、キャリブレーションと呼ばれる作業を決められた期間で行う。
これを行うことで生じるズレを修正し正しく測定できるようにするものであり、必要なメンテナンスなのである。

ファンとしてのキャリブレーション

ここで本題であるが、私は水樹奈々のファンである。
ファンとは競技・演劇・映画、またそれらの特定の選手・俳優などに対する、熱心な愛好家、とある。

そう、私は水樹奈々を愛し好んでいる。
シャーマンキングやNARUTO -ナルト-
F-ZERO伝説等意図せず彼女の声に触れていた時期はあれどしっかりと彼女を認識した上で好きだと感じたのは2004年からになる。
かれこれもう20年以上私の人生には彼女がいる。

私はよく無色透明だったなにものでもない自分に色をくれた存在と彼女のことを話すことがある。

あの日から水樹奈々のファンという色を貰ったのだ。

最近強く感じることなのだが、例えばライブやイベントにたくさん参加したり、長年応援していることなどを話したり、それこそ会員番号が1万番台だという事実を話すとすごい!などと言われることもある。
もちろん自分も昔はデビュー当時から応援してる人達や所謂古参といわれる人達とお話させていただく機会があるとそういうリアクションをしていた。
すごい!と憧れを感じていた。

自分が今その憧れに近づいたとかそういうことが言いたいわけでは決してなく、長年応援しているということはもちろん彼女が今も好きだし、これからの活躍やこれからの時間を共有したいと今も考えている。

しかし、ファンである以上好意的に、もっというと贔屓目で彼女を見ていることは言うまでもない。

世間の彼女に対する評価やアニソンに明るくない人達、音楽を好むがアニメを見たりしない人達など、我々ファンと言われる人種はフラットな評価基準、物差しを持ち合わせていない。

ここに私と、それこそ最近ファンになった人、そして水樹奈々を知らない一般人。
この三人がいたときに誰が一番正しくフラットな評価を彼女に対してすることができるのだろうか。

そんなことを最近考える。

私の活動を応援と呼ぶことがあるが、私が彼女を支えなければ…といったようなものではない。

ライブやCDを買うのも、アニメやラジオも聴くのも自分の欲求を満たす作業にすぎない。

要するに奉仕活動ではないのだ。
これは趣味であり人生を豊かにするもののはずが、こういうことを考えてしまうのはなぜか、自分でも自問自答することが最近増えた。
その時点で私の物差しは正確な測定ができないのかもしれない。

例えばXなんかでの反応だけをあたかも世間の反応のように感じたりと、年数を経て視野角は広がっても結局肝心の視力が低下しては意味がないのである。

この感覚、世間とのズレをどう修正していけばいいのか。
今後ファンをしていく上でのテーマになるだろう。

そして今彼女を知らない人達、今まさに知った人達、あなたたちがすごい!と思うことがこれからたくさんある。
それをそのフレッシュな感覚で受け止めてほしいし、ぜひその結果を記録していてほしい。






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