[新訳] 不安という概念

不安は自由の目まいなのである。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳
不安は、たとえて言えば「目まい」のようなものである。仮にある人がふと自分の眼で大口をひらいた深淵をのぞき込んだとすると、その人は目まいを覚えるであろう。ところで、その原因はいったいどこにあるのだろうか。それは深淵にあるとも言えるし、また当人の眼のうちにあるとも言える。というのも、彼が深淵を凝視することさえしなかったら、目まいを起こすことはなかったろうからである。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳

セーレン・キルケゴール『[新訳] 不安の概念』村上恭一訳 を読んだ。

少しでも不安について理解できたらと思って読んだ。
引用したのは比較的有名な部分である。こればっかりは原文が気になるところである。
思った以上にキリスト教の話だった。解説部分でも不安についてというよりもキルケゴールの家族の境遇やキリスト者であったことについての話が多いので、まあそういうことなのだろうと思う。
そして言い方が回りくどい。どの訳でも回りくどいらしいので、そもそもそういう言い方をするひとなんだろうなキルケゴールくんは。

キルケゴールの考え方をちょっとまとめて考えたことも書いておこう。引用したい部分を引用しつつ、でも回りくどい言い方の時は本当に回りくどくてまだるっこしいので引用を諦めようと思う。

(長すぎるので読まないほうがいいよ。
書き終わってから確認したらめちゃくちゃ喋ってたわ。)

  • キリスト教、聖書に即した罪の考え方をなぞりつつ不安について考えを展開していく

  • 罪が存在するには「これが罪である」という前提を必要とするが「これが罪である」という前提がある時点で罪は存在している。罪は自らを前提している

  • ゆえに、罪は予兆なく突発的に現れる。この突発的な出現を「飛躍」と呼ぶ

  • 「飛躍」の例として、神話がある

  • 新しいものは「飛躍」によって出現する

読み進めていくとこう言ってる。(たぶん)
(そんなんいうたら全部「飛躍」して出現してるやろ!と思うが、この本では聖書をなぞって原罪の出現について触れている。私は聖書にそこまで詳しくないので読もうと思う。言及を避ける)

突発的なもの=悪魔的なもの=不安=「飛躍」

  • 不安は可能性と現実性の間にある

ということで、自分が持ちうる可能性に関係なく現実性はやってくるため「飛躍」であるということらしくその理由のなさ、理屈のなさが不安になるということ、「飛躍」自体を言い換えると、名詞とすると不安になるということなのだろうか

これはまあそれなりに納得感がある。不安は常にまだ起こっていないものに対して付き纏っているし、それは何かの不明瞭な時、現時点で何もない時に感じる部分が多い。
現実には何もないのに可能性だけが見えてくる。これはもう大いなる不安ですよ。

不安はなお先行していて、罪の帰結が到来するまえに、先回りしてそれを察知する。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳

現時点で無なのに今後起こりうる(「飛躍」)と感じて不安がやってくる。
この文章はえぐい。私は辛い。
罪の自覚を持ちながら来ないかもしれない帰結に怯えて不安になる。帰結はまだまだ来ていない。不安しかない。いつかこの人生のツケを払う日が来るのだ。末恐ろしい。

悪魔的なものの話で、ここでも聖書のサタンとキリストの話が出てくる。悪魔的なものとはすなわち無、無こそが不安の正体であり、「飛躍」の正体である。悔しかったのが、臆病と高慢について触れられている部分。

なお加えて臆病は、自分がほとんど敗北したことがないことを勘定に入れることを心得ていて、それゆえ自分はいまだ全く損害を受けたことはないという高慢の消極的表現からして高慢なのである。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳

私の話をするのはやめてほしい。どうやら私はこういう文章に辛くなるらしい。中島敦でもそうだった。
臆病は受動的、高慢は能動的。能動的な臆病は高慢、受動的な高慢は臆病とのこと。自由であるのに一人閉じこもり、そして独白ばかりすることは不安そのものらしい。ウーン(死)

しかし心を慰められるのは、この不安によって教化育成されるのだという部分である。
不安のもとに踏みとどまり、その不安が過ぎ去ったことを記憶することが確実に人を成長させるという話には確かに頷く部分がある。
しかしこの育成において、破滅(すなわち自殺)の可能性もある。
不安の中にいられるかどうか、無の「飛躍」が過ぎ去るのを歓迎できるかどうか。この考え方で、私は自分を追い詰めてしまう不安について前向きに捉えられるようになりたい。できるか?本当に。無理かも。

ある程度不安についての考えは深まったが、あくまでキリシタン、あくまでこの時代のこの男の人の話であるので、他にも本を読みたいところである。おすすめ募集。探しちゃおう。
そして不安からは少し離れて、私の興味についても触れられていた部分を書いておこう。

わたしの目的のためには、せいぜい身体は心の器官であり、したがってまた精神の器官でもある
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳
[心あるいは精神に対する身体の]この奉仕的な関係が停止し、身体が叛乱を起こし、自由が身体と共謀して自己自身に対して反抗するや否や、非自由性が悪魔的なものとして、その場に現れることとなる。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳

以前に精神はあくまで肉体の産物であるが故の諦観をぐだぐだ綴っていたが、それでもなお精神が肉体を御そうという営みを賛美する『ゴシックハート』を思い出す。
だからと言ってこの場で止まっていいわけではないのだな~やりたいのにできないことを肉体のせいにしてしまってはもうどうにもならない。何も生まれない。臆病で高慢だったんだ自分って……
高潔であれといった信念には宗教的というか、キリストを感じずにはいられない。精神面の軸や目指すべき部分というものとして宗教はまさしくバイブルなのだろうなと思う。これが素晴らしい人間像です、このように行動しなさいという聖書、というか説教を聞いてそのように生きること、そして宗教でなくても確固たる信念はそれになりうるのだということを感じる。私は無からそんな軸を発見できるか?あるいは、何か拠り所を見つけるのだろうか。
しかし精神の実態がない以上、精神自体が既に不安の正体なのではないかという心地である。そうなってきたらもうしゃあないやんな。

個体[主体性としての人間]が不安によって信仰へと自己形成されるとき、不安は自らが生み出したものを根こそぎ取り去ってしまう。不安は運命を発見する。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳
信仰が不安を絶滅させてしまえるわけではない。むしろ信仰自身が永遠に若くして、不安による死的瞬間から絶えず自己をひき離すのである、
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳

そう、辛い現状について、キリストが磔刑にされて人々が絶望、悲嘆に暮れた日であると捉え、それは復活の予兆であると捉えるキリシタンを知っている。すべての不安は、その宗教や信仰の中では考え方の方向づけによって運命になってしまうんやろなあ それはすごく強い生き方であると思う

ちなみに運命は必然性と偶然性の統一という捉え方らしい。

そして最近、ゆっくり好きになってゆっくり進んでいくことの良さをひしひしと感じている。
もうその速度に疲れ切ってしまった。
田舎に就職したことがもう楽しみになってきた。早期退職みたいなやつは、加速していく社会に疲れ切ってしまった結果なんじゃないかな。人間のスピードと技術の日進月歩のスピードはうまく噛み合っていないよなあと、AI(という呼び方は気に食わないが)を見ていて思う。みんな動いちゃうんだもんよ、流れに乗ってたらすごい速さで進んでいくのよ。
立ち止まってうずくまって泣きたい気分になってきた。置いていってくれ。
(『加速する社会』を読もうと思う)

いまや現代のわれわれの生活は、かつて前例のないほどに速やかに過ぎ去る瞬間の様相を示している。しかるに、ひとはそこから永遠的なものを把握することの仕方を学ぶことから眼をそらし、ひたすら瞬間を追いかけることによって、ただ自己自身やその隣人、そして瞬間から、生を死へと、駆り立てることだけを学んでいる。
キルケゴール『[新訳] 不安という概念』村上恭一訳

ここまで読んでくれてありがとうございます。
最近、西の低い空に木星と金星が並んでいて、綺麗で目に留まります。オリオン座と、その近くのシリウスもよく見えます。
冬は夏より空が開けているので、今度思い出したら見てみてください。

おしまい!ばいば〜い

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