本を買った。嬉しい。川上弘美『某』。
何が嬉しいかというと、最近は事前に気になっていた本しか買えなかったから。あ、あの人が読んでた本で気になってたから買おう、とかばっかりになっていた。それに最近は、小説というより専門書や学術書ばっかり。

と、いうのも、小中高の頃は行き当たりばったりで本を買っていた。ジャケ買いならぬ、表紙背表紙タイトル買い。学術書や小説の分類も知らなかったから、たくさんの小説に紛れてヴォルテールの『寛容論』やカーソンの『沈黙の春』とかを買ってた。

最近はそういう買い方ができていなくて、大人になったのか、計画性が立ったのか。なんにしたって、ちょっと寂しい気持ちになっていた。無邪気さが失われたのか、ときめきセンサーが死んでしまったのか……。最近情緒不安定になりにくく、感覚が鈍麻してる気もして、それっていいことなんだけど、感受性が低くなってしまっていることにも寂しい気持ちになっていた。

大人になるってこういうことなのか〜?と思いながら適当に入ったツタヤで、適当に本を買った。買えた。嬉しい!

本屋で初めて出会った、小説を買った。川上弘美『某』。表紙が可愛いしタイトルもサイコー。ついつい買ってしまった。
表紙を選ぶ基準は、基本的にアニメ漫画タッチの人間が描かれてるものは選ばない。なんでかわかんないけど、母親がアニメ漫画が嫌いなのでその影響で私も選ばないのかも。アニメとか漫画は好きだけど小説とか観光地とかに現れるとウォ〜となる。なんでなんでしょうね。普通に人を想像するのが楽しいから、これ!っていうキャラクター像が明確に与えられているものが苦手なのかもな〜。表現と性格が結び付けられてるようなある種のコードが嫌なのかも。

いつも専門書とか学術書は唸りながら読んでいたけど、小説はドゥルドゥル飲むように読める。嬉しい。楽しい。久しぶりの感覚。こんなにドゥルドゥル飲めるのは、前に大いに病んでた頃ぶりかも。
こうやって文章に慣れた状態のままで生きていきたい。

ドゥルドゥル読んでたら、読み終わった。夕方の終わりがけに買って夜に読み終わるのはちょっと気分が良い。
私も私自身のことはよくわからないし、最近は特にどうしてこの形で存在して毎日やることがあるんだろうとか考えていたから、自分で自分がよくわからない主人公への共感は強かった。それに、”何者でもない”という意識だけを継承してかたちが変わっていくというのは、私が中高生の頃に書いた小説もどきを思い出させた。

昔のスマホの文章作成アプリだから厳密には思い出せないんだけど、シリーズもので、流れ星と惑星と、恒星とかをモチーフにしてたはず。流れ星と惑星については結構しっかり書いてたけど、流れ星だけは覚えていて、惑星については覚えていない。恒星については、ぼんやりとしたタイトルだけ。『〇〇し恒星』だった気がする。〇〇は、形容詞。
そんなことはどうでも良くって、『某」を読んで思い出したのは流れ星をテーマにした小説もどきだ。

流れ星が流れるたびに死ぬ話。死んで、また生まれる。ちゃんと言うと、死ぬのは意識だけで、肉体と肉体に付随する情報はそのまま。だから、たとえば山田太郎という肉体や家族構成、人生はそのままで、意識だけが死ぬ。そして、山田太郎の意識だったものは死に、別の人間ーたとえば山田花子に生まれる。流れ星が流れるたびに意識は肉体を移動し、肉体を移動するたびに死を挟むといった方がわかりやすい。そして、意識はこれまで山田太郎であったことを忘れ、これまでもこれからも山田花子であるという意識として山田花子に宿る。流れ星が降ると、また死に、別の肉体に宿る。その意識は新しく生まれた肉体にもともと宿っていたと思い込んでいる。しかし、一つだけ知っているのは、流れ星が流れる夜に自分の意識は肉体を離れて死に、別の肉体に生まれるということで、それも律儀に死んだ回数を覚えている。

ややこしいし、今思い返しても面白いとは思えないのだけど、これを書こうと思った中学生の私の感情には興味がある。どうしてこういうことを書いたんだろう。
思い返せば、原子には核があって、その周りを電子がまとわりついてる。みたいな核とその周りをめぐるものたちという構成を、惑星と衛生、太陽系、宇宙と同じだと考えたり、あるいは細胞核と同等に見立てて、宇宙は何かもっと大きな生き物の細胞かもしれない、地球は本当に些細なもの、そして人間はより些細なもの……とか考えていた気がする。専門家の方に聞かれたら、鼻で笑われそうだけど。とにかく夢想家で、だから小説のモチーフは星とかになったんだと思う。何か壮大なものを夢見ていたようだ……

それはそれでよしとして。読んだ感想としては、なんだかずっと楽しそうだなという感情。はい、変化します。ヌルッ。そうやって一つ前の姿形を脱ぎ捨てて、これで生きようと思えたかたちで終えられることはとても羨ましいことだなあと思う。かたちを変えられない私はどうやって最も好ましい状態で終わることができるのだろうかと考えるが、答えは出ない。アルファとシグマの関係性も面白く、前はあんなにどうして愛するとかできるねんと思っていた津田さんのように自分がなってしまっているのも面白い。結局、全体的に何がどうしてこうなっているかは全くわからないのだけど、ただ一つの”某”が望んで”生まれた”話でしかない。殺しに来た男も、何もかもわからない。わからないけど、わからないのなんて最初からそうだったのだし、自分のことでさえよくわからないのだから、わからなくて当然なわけである。

本の後ろについている、解説とか後書きとかには哲学的な問いとかメタフィクションとか、すごく賢い人の感想であったり考えが書いてあって、本当にすごいなあと思う。私もその領域にいつかいけたらと思うが、思うだけ。もっと努力しなさ〜い。は〜い。
この本を読んで何かが変わったというよりは、自分みたいな生き物、考え方をしている人間がいるんだということを本の中に発見した喜びが大きい。森鴎外の『舞姫』の、意思薄弱、朝と夕とで別人のように意見が変わる人間を目の当たりにした時と同様のものである。

よくわからない、そう、よくわからないのに皆わかっているように振る舞うから、いつまでもよくわからない。よくわからないけど、なんとなくぼんやりとしたものが私の中に収まっている。
これといった確信はきっと死ぬまで手に入らない。
死ぬしか確信を得る方法はないのかもしれない。確信を得たから死んでしまうのかも。

うーん。よくわからないね。

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