鴨川ランナー

『鴨川ランナー』グレゴリー・ケズナジャットを読んだ。
京都に住んでて、ちょっと文章を書くよ、本を読むよ、という人間なら当然知られている京都文学賞の受賞作である。「京都らしさ」「京都ならでは」に懐疑的な京都出身京都在住の私としては、京都文学賞ってなんやねんと思わないではない。思わないではないが、恋人もどきの友人が興味を示していたので「ふーん、きみも読むなら、ま、買ってしまおうかな」という気持ち。友人のいる場所では買わず、一旦帰って、一人で本屋に行って買った。しょぼい地元の書店にも置いてあった。ただ、海外文学みたいな棚に並んでいた。海外文学ではないだろ。帯の後ろにも、”新たなる日本文学の誕生”て書いてあるやん。しかし、そういう緩さが地元の書店である。これが京都のまちなかにある「京都っぽい」書店だとしっかり日本文学と背を並べていたに違いない。それは正しいがある種の「ケッ」という気持ちが生まれないでもない。地元の書店も京都市内の書店だし。

思っていたよりも現実的な話だった。京都に夢を見て、醒めて、醒めたけど、まちの中に突如現れるような鴨川とか、そういう京都はなんか好き。という感覚に、悔しながら「わかるぞ……」という気持ちになった。「京都」というブランドがなんかかっこよくて、素敵で、不敵で、幻想的に思える光景はしっかりと存在している。
けど、結局そんなもんではない。なんとなくいいね、なんとなく楽しいね、なんとなく素敵だね、と思うものには種類があって、その中には京都に向いているものがある。良くも悪くも、それが心地よかったり、排他的だったりする。どこもこじんまりとしたサークルと、コネで繋がってる。そういう小さい狭いまちでしかない。京都ってやつは。

ちょっと前に、鴨川の野鳥を載せているサイトの方にファンとしてメールをやりとりした時の気持ちを思い出した。昔から、まちの中を流れている鴨川が今も流れているということ自体がなんだか不思議な気持ちで、いい気持ちですね。あの方は今もまだ、京都の野鳥の写真を撮ってはサイトを更新されている。

この『鴨川ランナー』に出てきた色々なあれそれが、私に身近な情報でとても嬉しかった。
オリエンタリズムに関するアリシアとのやりとりも、より実感を持って読めた。まず自分達とは違うものであるという出発点から「きみ」は日本に興味を持ち始め、日本に来て「きみ」は日本人からの外国人は自分達とは違うからという出発点での絡みに少し不快な気持ちになる。ここら辺の感覚はサイードの『オリエンタリズム』を読んでおいて良かったと思う。
「きみ」が初めに京都に住んだのは、南丹市の八木町だ。南丹市の八木町は私の祖母の実家で、田舎の村である。昔はもっと大きな立派なお屋敷などがたくさんあったらしいから、そのころに「きみ」が行けば楽しかったんじゃないかなと思う。
そしておそらく、「きみ」に声をかけてくれた教授の大学はきっと同志社大学だろう。うーん、あまりにも身近。

この『鴨川ランナー』では、主人公の名前は出てこない。「僕」「私」も出てこない。「きみ」が出てくる。これはこの物語の中で、結局「きみ」が日本語での一人称は自分を表していると感じれなかったことになるのだろう。「きみ」と言っているから、まるで語りかけられているような気持ちになるが、不思議とそういう気持ちにはならない。読みやすい日本語で書かれているから錯覚してしまうが、これを書いているのは海外の文化と言語で育った人間で、だから筆者の思いがそのまま日本語で表されているかと言ったらそういうわけでもないのだろう。ないからこそ、「きみ」という言葉を使っているのだと思う。この言語の違いによる表現的な部分はなんともし難い困難と複雑さを持っているが、「京都にもともと住んでいたんですよ」、「なんとなく人が少ない時の、鴨川の上の方はいい感じ」という感覚は誤解も何もなく、間違いなく共有されている。


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