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フランチャイズ展に参加して、片っ端から話を聞いてみて、気づいたこと

先日、某会社主催のフランチャイズ展に行ってきた。そもそも、なぜフランチャイズ展なのかというと、現在通っているボクシングジムの先生が独立を考えている僕に、次の職探し候補として紹介してくれたからである。

そんなわけで時間のある僕は、フランチャイズのフの字も分からぬまま、会場に足を運んだ。

早速、入場の受付を済ませ、出展者のチラシや僕自身の個人情報が書かれた紙を渡される。直前の Note にて「所作」が重要であると僕は書いたが、ここでも人の所作が気になってしまった。

受付の人は少なくとも3人いたのだが、少し暇になると、知り合い同士でおしゃべりをしたり、スマホを触ったりしていた。別におしゃべりやスマホを触るのは全然構わないのだが、その一瞬に彼らの素の部分が滲み出しており、あまり良い印象を受けなかったのが本音である。

そうこうしているうちに開場時間となり、出展ブースにぞろぞろと参加者が流れ込んでいく。各出展ブースの近くには出展者が立っており、近くを通るものなら、すごい勢いで勧誘され足止めを喰らってしまう。僕はそのような偶然性にも間口を開けつつ、興味ありなしに関わらず、全44ブース中11ブースに立ち寄り、片っ端から話を聞いてみた。

まず、1ブースの滞在時間であるが、出展者の性格にもよるが、最も短くて10分、長くて30分という具合だった。なので、11ブースの訪問は結構ハードできつかった。

ここでも僕の考えている「良いプレゼン」についての持論を展開するが、出展者は自分が言いたいことをただ喋りまくればいいというわけではない。そのようにしてしまうと、学校の授業がつまらなかったように、話す側が能動的、聴く側が受動的という一方通行の関係に固定化されてしまう。そうではなく、話す側は聴く側に質問の余地を作ったり、関心を持ってもらえているか探りながら、聴く側が聴くだけに徹してしまわぬように仕向ける配慮が必要である。つまり、プレゼンという場は「中動態的」に進行しなければならない。それが出来ている出展者がほとんどいなかった。

次に、僕は初対面の人とも難なく話せてしまうということを改めて実感した。ただし、それと同時にその人と話せば話すほど、人相、表情、目の輝き、言葉の選択、話し方、身振り手振り、癖など様々な要素を水面下で分析し、この人が好きか嫌いかを判断してしまう傾向がある。おそらく、小学生の頃から何かといじめの標的になりやすかったことや両親の機嫌ばかりを伺っていたから身に付いた特殊能力なのだと勝手に思っている。

この人間と会話した時に受ける印象というのは、何なのだろうか。その興味の矛先として、人間の顔面が誰一人として同じではない複雑性を帯びていること、また性格も様々なバリエーションがあること、そのような点に僕は関心があることが分かった。

また、人相に若干関連するが、僕は人の「情」というものが人生で極めて大切ではないかと感じている。そう思ったのは、話した人のほとんどがビジネスを展開する(お金儲けをする)ことにしか頭にないように見えたからである。

例えば、「情」という言葉を漢和辞典で調べると、このような意味が出てくる。


①:ものに感じて起こる心の動き。思い。こころ。
②:まごころ。思いやり。なさけ。
③:人の本来の性質。
④:男女間の愛。
⑤:ものごとのあじわい。おもむき。
⑥:ほんとうのありさま。

              参照:例会新漢和辞典 第五版


世に蔓延るビジネスマンたちは、お金さえあれば何でも解決できると盲信しているが、本当に大事なのは、お金という存在がなくても困っている人に手を差し伸べたり、助けてあげたり、人と人が心を通わせたりすることだと思うのである。(※お金で解決できることもあります)

もちろん、このような情はお金では買えないし、買えたとしても陳腐なものになってしまう。だからというわけではないが、友情、情愛、風情、情緒は蔑ろにしてはいけないし、はたまた欲望などネガティブと見なされているものも含めて、そこに人間らしさや趣があるのではないかと感じる。

話は前後して、帰りのバスでのエピソードをひとつ。

優先座席付近に立った僕は、生後数ヶ月の赤ちゃんとその子を抱き抱えるお母さんを目にする。その隣には、おばさんが1人と会社帰りと思われるお姉さんが1人。おばさんもお姉さんも、赤ちゃんの存在に気づき、声をかけたり、手に触れたりと、その空間が幸せな雰囲気に一瞬にして包まれた。

そんな僕も赤ちゃんを見ていると、その子と目が合う。昔から、なぜだか分からないが、赤ちゃんにはほぼ間違いなく見つめられてしまう。目が合ってしまったからには、こちらもそれに応えないわけにはいかない。今回も赤ちゃんに気に入られてしまったようで、お母さんの影に恥ずかしそうに隠れては、また顔を出し、笑い、また隠れてを繰り返した。ここで僕は、千葉雅也氏が言及している「いないいないばあ」の原理について思い出したのだが、それは置いておくとして、これこそ僕が求めている「情」を通わせる大切さだと実感した瞬間だった。

最後に、フランチャイズに関してである。僕は会社を退職する時からというもの、具体的に何も考えがないにも関わらず、自分の小さなお店を持ちたいと周りに言ってきた。あるいは、起業したいとも言っていた気がする。しかし、フランチャイズの話を聞きまくった結果、どこか自分の中に違和感を覚えるような感覚があることに気づいた。

「本当にお店を出したいのだろうか」

「塾やコンビニなどを経営したいのだろうか」

そういうそもそもの問いに僕は、明確な答えを出せなかった。


フランチャイズとは、事業の拡大方法の一つで、本部(フランチャイザー)が、自社のビジネスモデルやブランド、商品、サービスを、契約に基づいて加盟店(フランチャイジー)に提供し、加盟店がそれを使ってビジネスを行う仕組みである。

フランチャイザーは、加盟店にノウハウやサポートを提供する一方、加盟店からは加盟金やロイヤリティ(売上の一部)を受け取る。加盟店は、独自にビジネスを始めるリスクを避け、成功しているビジネスモデルを利用できるメリットがあるが、運営方針や商品に対して一定の制約がある。

参照:chatGPT より


そもそも、屋号を借りてまでそれを誰かに提供したいという熱い思いになるような何かには、未だ出会っていない。そうであるならば、日本政策金融公庫に莫大なお金を借りてまでお店を作るというリスクが大きすぎる。筋が悪すぎである。

ここから派生して、なぜ会社を辞めてしまったのか?について考えが巡った。僕のこれまでの考えは、「自分のやりたいことをやるために会社を辞める」だったのだが、どうもこれは違ったのではないかと思った。

答えは全くその逆で、「やりたくないことをやらないために辞める」だった。この点は僕が気づかないうちに、思い込んでいた節がある。おそらく、誰かに話す際に「やりたくないことをやらないために、会社を辞めます!」と言うと、すごく格好が悪いと思ったのだろうと思う。

では、やりたくないこととは何だったのか。ここを掘り下げていこうと思う。

辿り着いた結論を述べると、「尊敬できる人がほとんどいなかった」ということである。要は一緒に働く人であり、周りの環境ということに尽きる。どういうことか。

僕が前の会社に入ったのは、面接官の印象が良かったことが決め手だった。それは間違いなかったのだが、内部に入ってみると、僕の考えは甘く、印象が悪い人が無数におり、至る所で不協和音が鳴り止まない状況だった。

しかし、その不協和音の中でも信頼のおける先輩社員ができ、毎日一緒にラジオ体操をし、一緒にお昼を食べ、一緒に実験したりする中で、その人といるときは本当に楽しかったという強い印象がある。

その一方、入社前の懇親会で「お前に彼女がいないのは、積極性のなさだ!」と言われたり、一部の部署だけが経費で飲み会を開いたり、接待ゴルフ用のクラブ一式を自腹で購入しろと命令されたりなどと、人として尊敬できない行為を何度も何度も見ていく中で、次第に自分の中で尊敬できる人と尊敬できない人の境界線が作られていった。

そういう尊敬や信頼が失われていく中で、誰かに命令されたりして、言うことを聞かねばならない状況が自分の中でとてつもなく嫌だったのだと今振り返ると実感する。

能力というものは、個人の中に内在していると誰もが思っているが、実際はそうではない。一緒に働く人や周りの環境次第で能力が発揮されるか否かは変化するのである。

もう辞めてしまった遅刻癖のある新入社員がいたのだが、彼が遅刻する理由も本人の意志の弱さだけではなく、単純に彼が会社に行きたくない状況を作ってしまった周りの環境が大きいと僕は思っている。それを本人の意志と責任にすべて転嫁してしまうのは、おかしな話だと思う人が周りにいなかったのが可哀想でならない。

つまり、僕はサラリーマンが嫌だったのではなく、前の会社が嫌だったから辞めたのである。ようやく、この事実に気づくことができた。どれだけ時間がかかったのだろうか笑

では、どういう状態であれば、心が満ち足りるのか。それを考えていきたい。究極は人生の大部分を占める仕事の時間を有意義で楽しいと思える時間にすればいいのではないだろうか。では、その要素はどのようなものか。

・尊敬できる人が周りにたくさんいるか
・仕事内容に自分の興味が湧くか
・仕事に価値があると思えるか、顧客にその価値を認めてもらえるか
・嫌なことはやりたくないと正直に言える環境があるか
・自身にとって嫌なこと、やりたくないことを省いた環境に身を置いているか

他に挙げればキリがないが、こういう条件が揃っていれば、サラリーマンに戻るのもありではないか。いや、何かやりたいことがない僕にとっては、むしろ一番良いのではないかと思っている。

しかし、人として尊敬できる人は意外と少ないという事実にも向き合わなくてはならない。このフランチャイズ展でも様々な人と会話し、その短い時間で決めつけるのは良くないのは承知の上だが、やはり好き嫌いがあった。この好き嫌いを分解してみると、複雑な要素の絡み合いの末に生じる尊敬があるかないかに基づいているのではないかと思う。

そのように考えると、尊敬できる人たちと働くのはハードルが極めて高いのではないかという仮説が僕の中に出てきている。運なのか、ガチャなのか、それとも相馬眼で見極めることができるのか、今後どうしていくのかの課題である。

最後に、自分のことは棚に上げて、他人の人相がどうだとか好き勝手書いてしまったが、僕はどうなのか書きたいと思う。

最近、僕は自分自身のことが好きである。なぜか。
Soysauceman は自分で言うのもアレだが、意外といい奴なのである。そう素直に思えている状況がある。

自分に嘘をつかないし、人に対しても優しい心を持っているところが僕の一番良いところだと自負している。家族、友人、知人を大切にできるし、彼らを傷つけてしまった時には素直に謝れる。

もちろん、僕も一人の人間として完璧ではないので、これからも成長して恥ずかしくない大人を目指していくつもりなのだが、少なくとも現時点では自分のことを誇れる自分でいられていると自覚した無職の半年間だった。

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