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閉じた世界のすみれの花

 最近、周りの知り合いから「大丈夫ですか?」と声をかけられることがある。何かというと、宝塚歌劇団に関する一連の報道です。僕が宝塚歌劇団の公演を見にいっていることを知っている人たちが声をかけてくれる。いわゆる「推し」——宝塚風に言えば「ご贔屓」か——が炎上しているみたいに感じる人が多いみたいなんだけど、もちろん僕自身は大丈夫である。しかし、日々報道されているニュースを聞いていると(積極的にそのニュースを追っているわけではないけど、それでも十分耳に入ってくる)、やっぱり気分が滅入るというか、宝塚歌劇団云々は置いておいて、一個人が集団に押しつぶされてしまうことの残酷さをひしと感じずにはいられないし、亡くなった方および遺族の方々の心中は察するに余りある。
 僕が一連のニュースで感じたのは、集団が閉じていることがいかに危険であるかということだ。ご存知の通り、宝塚歌劇団は未婚の女性のみで構成されていて、その世界に飛び込んでくるのは15歳〜18歳の少女に限定されている。歌劇音楽学校で2年学んだ後はほぼ全員が宝塚歌劇団に配属になり、そのまま舞台の上での人生を続ける。人生のうちで一番柔らかな魂を持っているであろう時期を全て宝塚に捧げることになる。その潔さを良しとする考え方もあるだろうが、そういった生き方はある意味では非常に特殊な状況なのだということを、少なくとも歌劇団経営陣は自覚しなければならない。彼女たちに「外の世界にはもっと色々なものがあり、君たちはそのどれになってもいいのだ」というメッセージを送り続けるのが、大人としてしなければいけないことだろうと思う。
 閉じた世界の中では、その世界がそこに暮らす人たちの全てである。閉じた世界の中の独自のルール、独自の考え方で物事が動き、そこで長く暮らすうちに、ともすれば自分自身の考えと閉じた世界の考えの区別がつかなくなる。自分が正しいと思ったことが、気付かぬうちに「その閉じた世界の中のルールとして正しい」こととすり替わっている。そういった環境の中で正気を保ちながら生きていくことは、おそろしく苦しいことになる。
 もちろんそういった状況自体はどの業界でも多かれ少なかれあるかもしれない。しかしその状況を恣意的に、システム的に作り出すとすれば、それはこの(閉じられていない)世界の中では「洗脳」と呼ぶことになっている。「開かれた組織づくり」というフレーズはよく耳にするけれど、多くの場合それは「外部の人間のアクセスを受け付ける」ということを意味しているように感じる。しかし、何より大事なのは「内部の人間が外の世界を自由に、カラフルに想像できる」ことなのではないかと思う。

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