蛙さんとわたし:2024年4月1日時点の意味づけ
蛙さんへ
高校2年生の頃、自己紹介の場面で「井の中の蛙なので…」と話しはじめたときから、私が蛙だと気づいたときから、あなたは私にとって特別な存在です。
高校3年生の時、あなたが登場する物語を人前で語りました。
大学1年生の夏ごろには、「井の中の蛙の物語」という文章を書きました。
中学生や高校生のみなさんの前で、あなたについて語ることもありました。
時々一緒に旅行したりもしたね。
最近あなたは私の部屋の本棚の淵に座っています。暮らしの傍にあたりまえに居てくれます。
あなたの力を借りて「井の中の蛙の物語」を書くことは、自分自身を”物語化”しようとする試みでした。物語化というのは、一般化、理論化、単純化、抽象化、と言い換えることもできそうです。
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物語化(≒一般化≒理論化≒単純化≒抽象化)が産み出すもの
”物語化”したかった理由は2つありました。
1つ目は、私の個人的で具体的な訴えが一般の課題として扱われ、価値があるものと評価してもらえるかもしれないと思ったから。2つ目は”同じ形”の経験や思考を重ねてきた人たちと、異なる場所に居てもわかりあえるかもしれないと期待していたからです。主に、2つ目への思いが強かったと記憶しています。
人間は、個々に色々な環境に投げ込まれ、複数の経験や出会いを汲みながら過ごすので、それぞれに固有で特別な存在です。しかし、固有で特別というのは、そんなに楽な状態ではありません。簡単に周囲に共感されないし、ある意味孤独な存在です。どこかで簡単に共感されてたまるかと思いつつ、やはり何か互いとわかりあえるという安心感が欲しかったのです。
”物語化”はこの安心感を手に入れるための実験的な取り組みでした。いざ”物語化”してみると、経験や思考の具体性が薄まって、輪郭だけが残っていくようでした。読んでくれる相手には、物語の中に、何か見覚えのある形を感じとってほしいと思いました。自分と他者が同じ形でつながる世界を夢見ていたのだと思います。あなたはそんな理想の中でのびやかに振舞ってくれました。
物語化する過程では、具体的な経験を固有名詞を用いずに書くことにしました。もし、具体的な私の経験を記述してしまっては、何かの単語に躓いて”全く無関係なことだ”と判断してしまう人がいるかもしれないと思ったからです。当時の私もまた、肩書や年齢や性別によるバイアスで多くの思考停止を起こしていました。こういう思考停止は克服できると思っていますが、時間がかかることだと思います。誰かの語りを聞いた時に、自分には関係ないと、無意識に遠ざけてしまうのでは、自分が誰かと支え合うタイミングを逃し、他者との分断を生むことになります。
実際に、蛙さんに”自分を見た”と言ってくれた方々がいました。各々が思い当たる具体的な事柄と照らし合わせて、物語の中に”同じ形”を見てくれたのだと、嬉しくなりました。
でも、嬉しくなっただけでした。
”同じ形”を持っている可能性を知り合っただけで、わかりあえたな、という実感や、支えあっている、という実感にはたどり着きませんでした。
物語化(≒一般化≒理論化≒単純化≒抽象化)により失われるもの
あなたの物語を書いたとき、ある人から「きれいにまとまり過ぎている。」と言われました。私は素直に、「そうだな。」と思いました。思い当たること(物語に反映させられない、したくない心の機微や経験や環境を隠している)があったからです。それでも、当時の私には、書かなかったものを直視する勇気も、記述する技量もありませんでした。
物語化には、いつも不可視化がつきまといます。先程、蛙さんの物語は、私自身の一般化を目指しているのだと言いました。具体的なナラティヴではないのです。だからこそ、蛙さんが引き受けているものの大部分を見捨てることになってしまいました。
他者との間に”同じ形”を見出そうとすることは、自分の大切な何かを蔑ろにすることでもありました。そして、同時に、他者の何か重要な事柄を蔑ろにする危険性を孕んでいました。
蛙さんとわたしの関係性
人間は変わり続けるものだから、都度暫定的に今ここにいる意味を付与しながら生きのびるものだと思います。「井の中の蛙の物語」もまた、当時の私とあなたの暫定的なコミュニケーションでした。一緒に物語にのって、一緒に盲目的になって、共依存関係に陥っていたように思います。
しかし、今の私はあの頃とは違います。物語に描かれなかった微細で複雑なものが見えなくなっていくことに、それなりの危機感を持っています。一方で、不可視化を回避して複雑性を記述することで、同じ形を見い出せずに分断が広がっていくのではないか、もっと孤独感が増してしまうのではないかという恐怖も抱えています。
どうやったらこのジレンマを乗り越えられるのかはわかりません。
ただ、もうあなたの物語の中でだけでは生きていけないということは確実なのです。
今の私なら、当時のことを少なくともあんな風には書かないでしょう。
今の私なら、もっとあなたを大切に扱える。
これからの私の営みは、物語の中でしか生きられなかったあなたを、少しでも勇気づけて、開放していくためのものになるでしょう。今度は、あなたを支えていけると思います。関係性は変わってしまうけれど、傍に居ます。
ながらく私を生かしてくれてありがとう。
これからはもっと、素直に生きていいからね。
愛をこめて 野月そよか