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学校を越えてゆけ!~脱学校化社会に向けて~【前編】


今回のnoteでは前編・後編にわたって、私が学生時代から、教育という分野において人生をかけてやりたいと思っていることについてお話ししたいと思います。

以下のような方にぜひ読んでいただきたいです。

・学校に違和感を抱いてきたひと
・学校に適応できず苦しんでいるひと
・上記のようなお子さんを持つ保護者のひと
・教育分野でなにか活動をしている、していきたいと思っているひと
・学校やそれ取り巻く社会のあり方を変えていきたいと思っているひと


前編ではまず、私がやっていきたいことの話の前に、私が学校や教育、それをとりまく社会のあり方に対して感じている問題意識について、私のバイブルとも言える以下の2冊(『脱学校の社会』イヴァン・イリッチ・『被抑圧者の教育学』パウロ・フレイレ)の本の引用も交えながらお話しします。

これらの本に興味がある、読んでみたいけれど難しくて自分で読み進めるのが難しいひとにとってもそのきっかけになればと思います。

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まず前提として、学校が必要だと思う人もいるかもしれませんが、私は学校がなくなってもよい、もしくは学校に取って代わる新しい仕組みをつくっていくことがしたい(しなければならない)と思っています。

(ここが一般的な教育や学校を当たり前のものとして疑ったことのなかった人が、まず理解に苦しむところかもしれません…)

なぜそう思うかというと、人間が人間らしく育っていくために、豊かに幸せに生きていくために、 学校に行くことによるデメリットが大きすぎると考えているからです。


そのひとつが、学校に行くことによってわたしたちが身に着けてしまう「潜在的カリキュラム」にあります。

「潜在的カリキュラム」とは、教科学習のように教えようと思って教えている、計画的に教えることをまとめた「カリキュラム」とは別に、教えようと思ってはいないけれど自然と身につけてさせてしまっていることを言います。

例えば、以下のような価値観を、「潜在的カリキュラム」として、学校に行くことによって当たり前に身に着けてしまっているのではないでしょうか。

・この時期にこれができていないといけない
・人は測れるものである
(能力は点数化できてそれが低いと人としての価値がない)
・過ごし方は決められていてそれ通りに動かなければいけない
・ルールは従うもので変えていけるものではない
・社会はどこかにあるもので自分たちはその一員ではない
・年上のひとに歯向かってはいけない


イヴァン・イリッチが『脱学校の社会』のなかで最も問題視している「潜在的カリキュラム」について以下のように書いています。

潜在的カリキュラムによって、生産を増加すればよりよい生活が得られるという神話が生徒の頭の中に徐々にしみこまされていく。そして、どこででも、潜在的カリキュラムは、自分でやる能力を台無しにしてしまうほど他人からのサービスを受ける(消費する)ことを人々に習慣づけるとか、人間疎外を引き起こす生産とか、安易に制度に頼ることとか、あるいは制度の序列化を認めることなどを助長する。(『脱学校の社会』イリッチ, p14)

つまり、簡単にいうと学校があることで「学校に行けば学びが得られる(それ以上学ばなくてもいい、学校に行っていれば学んでいることになる=学校で学ぶことこそが学びだ)」と思ってしまうようになる、ということです。

さらには、学校でそのように「なにかのサービスを受ければその価値を得たことになる」と思ってしまうようになった社会や、そのような習慣を身に着けるきっかけとなる学校を問題視している、ということです。

このように、サービスや制度の世話を受けることの結果として様々なことの価値が得られると思うようになってしまうことをイリッチは「価値の制度化」・「学校化」と言っています。

なので、本のタイトルになっている「脱学校」という概念は、 「学校をなくす」という意味ではなくこのように学校化されてしまった社会や人の振る舞いを批判しているのです。


それが起きるとどうなるのか。

学校に行けば学べると思ってしまうことによって、自分の知的好奇心に従ってなにかをするのではなく、与えられることに慣れて、カリキュラムのタスクをこなすことが日常になってしまいます。

そして、カリキュラム以外のことを学ぼうと思わなくなったり、カリキュラム以外を役に立たないものと捉えてしまいます。


そして学校では、そのひとの生活に関係があろうとなかろうと、年齢で決められた知識をまんべんなく入れてどばっと引き出せるようにしておかなければならないという機能があります。パウロ・フレイレはこれを、『被抑圧者の教育学』のなかでこののように批判しています。

生徒と気持ちを通じさせる、コミュニケーションをとる、というかわりに、生徒にものを容れつづける…本来の探求という意味や、本来の修練という意味は失われ、一人ひとりが本来の人間になる機会を奪われてしまう。
(「新訳 被抑圧者の教育学」パウロ・フレイレ、p.80)


このように、人に知識を入れ続けることやいつでも引き出せるようにしておかなければいけないことを銀行に例えて「銀行型教育」と呼んでいます。

国数英理社などの教科学習によって評価をされ続けることで、それが学びだと思ってしまうし、それができないと劣っている・普通ではない・能力が欠如している、ということになってしまったり、最近は発達障害などのような言葉で説明されることも増えていると思います。

でもそもそも全ての人が同じことをできるだけはないので、人によってできることが違って当然できないことがあってもよいという社会であれば障害だからというような説明をしなくてもいいのではないでしょうか。

そしてそのような学校の中の学び(勉強)に閉じていってしまうことで、本来は生活や人生、生きることにまつわるすべてが学びやそのきっかけであるにもかかわらず、

現状は学校での勉強(テストやカリキュラム)が優勢すぎて、落伍者になることの恐れだけをかきたてる装置になってしまっています。


さらには、 最近では「ブルシット・ジョブ――クソどうでもいい仕事の理論」という本が話題になっていますが、 学校で何かを与えられ続けることに慣れ、人の指示に従って生きるようになってしまうことで、そのような誰かや社会にとって意味のあるかどうかわからない仕事を生んでしまったり、 それに人生の大半の時間を使うことに疑問を抱かなくなってしまう、そのような人をたくさん産んでしまうことに恐れを感じます。

そうではなく、そもそも「学ぶ」という行為は自分とつながっているときにしか起こりえない(数時間後数か月後には忘れてしまうような知識を詰め込まれることは学びではないと思う)ので、

なにかを知り自分のものとし、自分自身がどんどん豊かになっていくこと、そのように学びたいことに従って生き、自分で自分の人生をつくっていく感覚を持ち続けることが、学びの本質ではないでしょうか。


ここまで読んでいただいた人の中には、「でも学校(教育)も改革を重ねて、よくなってきているのではないか」と思う人もいるかもしれません。

もちろんプロジェクト型学習(PBL)や探究学習をベースとした、学習指導要領に依らない新しい学校や、新しい教育の形も出来てきてはいますが、学校自体の存在意義を問い直す活動は、全体から見ればまだまだ少なく、誰もがアクセスしやすい状況にはありません。

私立の学校が良い例ですが、今の教育に違和感を感じたところで結局お金を払わなければよりよい教育を手にすることはできないという仕組みになってしまっています。

けれど、既存の社会や教育の恩恵を受けている人(例えば、学校の勉強に適応できる・いい仕事に就ける人)は、それに違和感を感じることがなく、むしろ不利益を被っている人の方が違和感を感じやすいので、

分かりやすく言えば、貧困世帯の人の方が学校に違和感を感じやすいのに、お金がないと別の学びを選択することができない、ということです。(もちろんお金をかけずに良い学びを得る方法はたくさんあると思いますが、貧困世帯の人の方が情報を得ることも難しい場合があると思います。)

また、学習指導要領自体の改訂も行われてはいますが、学校的な価値観(人をデータとして扱う評価と選抜のしくみ、人間の発達段階を無視したカリキュラム、知識は分類できる・他者が学ぶことを決められるという前提など)を問い直さなければ、いくら内容が変わっても学校の持つ機能は変わらないし、

学校が学校である限りひとは学校に依存してしまいます。

学校教育が、パッケージ化された教育サービスの受動的消費を強制する過程であり,またその過程に慣れさせる過程である限り、この過程は学習するに価するものが絶えず教授されるものと勘違いさせる過程、教師に管理され教師に教授される知識こそが学習するに価することであると思わせる過程であり続ける。(『脱学校の社会』イリッチ)


そして、最近のいわゆる「あたらしい教育」について語られるときの謳い文句として、「人生100年時代だから大人も子どもも学び続けなければいけない」とか、「AI(コンピュータ)に取って代わられないように」みたいなものをよく耳にするなぁと思います。

確かに、人生100年時代になって変化することはあるかもしれませんが、そもそも学びは一生続いていくものだと思いますし、「社会がこうだからこういう学びを得ないといけない」というのは、

「(社会が)学歴主義だからいい大学にはいらなければいけない」などの発想と同じで、社会の側が変わっただけでそれに適応するための学びをしなければいけない、という思考は変わっていないように思います。その思考のままでは、結局その学びに適応できないひとが不利益を被る社会になり、こぼれ落ちる人の種類が変わるだけなのではないでしょうか。


「AI(コンピュータ)に取って代わられないように」という考え方も、たしかに技術は発達し続け、それによってひとがやりたくなかった仕事をやってくれるようになればよいですが、人がやりたかった仕事まで奪われてしまうのであれば本末転倒ですし、

でもそもそもAIができることはAIがやらなければいけないのでしょうか。人間がやりたいことなのであればやればよいのではないでしょうか。

それに、そんな風に人間が豊かになるためにAIを使えない、コントロールできなくなっているのだとしたらそれは本当に恐ろしいことです。

AIに取って代わられないように「AIができないことをやらなければいけない」という発想なのであれば、それもまた「人の学びを社会の側に合わせなければ」という思考に囚われてしまっているし、AIの方をコントロールして人が豊かになるための学びに時間を使えるようにすべきなのではないでしょか。



さて、前編では、学校の持つ機能や潜在的カリキュラム、それを取り囲む社会のあり方やそんな学校や社会で過ごすことで人がどのようになっていく危険性を孕んでいる(とわたしが仮定しているのか)というお話をしてきました。

後編では、じゃあそんな違和感を持つわたしが、どんな学びのあり方を想像しているのか、これからどんな世界をつくっていきたいと思っているのか、というお話をしたいと思います。ぜひ後編も読んでいただければ幸いです。


(2024年7月現在、後編は書けていないです……)

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