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小説「アップバオー美術探訪のピラテゥスドラゴン」 第2話
生まれた時から、洞窟の中では生存競争のトップに君臨していた。生まれてきた卵の殻の中には栄養袋のようなものがあり、はじめのうちはそれと管でつながっていた。その管がぽろりと剥がれ落ちるころには、頭は冴えわたり、遊びがてら狩りをするようになっていた。少し不器用ながらも、ほとんどの場合、一瞬でカタがついた。
わたしの生まれた洞窟は、人間がくるのにはかなり苦労する場所にあり、そのおかげで人間を避ける動物たちがたどり着き、隠れ家になっていた。それを美味しく頂いているわたしには好都合だったが、その動物たちからしたらわたしは、人間よりも脅威度が低く、そして山猫よりも誇り高くはない存在だったのだろう。わたしは、野生動物特有のマナーでみくびられていたのだ。
わたしは、そのまま自分の脅威度を偽りつづけながら、その動物たちを狩った。
そのときのわたしは、言葉という概念を持ち合わせていなかった。それを教えてくれるひともいなければ、それを共有するひともいなかった。ただ、孤独な論理的思考の範疇のなかで、わたしはたくさんのことを洞窟で学んだのだと思う。
あるとき、ネズミを殺さないという遊びをきまぐれで始めた。いままでは、目の前にある生をいたずらに摘むことを娯楽にしていたが、その逆を思いついたということだ。そうしてみると、行動をする前に一度考えるという余地が生まれ、殺すと殺さないの選択肢が生まれた。
しばらくすると、少し迷うような場面もあった。もちろんその当時の私には、仮にネズミと認識したものの生物としてのカテゴリーを正確に知るわけでもないし、物を系統別に区別するという発想も持ち合わせてもいなかった。初めてウサギを見たときには、とりあえず殺さないでおいた。そうして、ネズミと大型のカマドウマとウサギと山猫がネズミとして認識された。
また、あるときそのネズミが、わたしが狩った食料を食い荒らし、なおかつそこに糞をまき散らして逃げようとした。その時は一瞬で湧きあがった怒りのままに、ひとくちでガブリと喰いちぎってしまった。しかし、その後、約1か月の間、強い居心地の悪さを感じた。その感情の理由もわからず、断続的につづく、チクチクとした痛みに苦しんだ。それはおそらく、自分の中に湧き出したある可能性に知らないまま近づき、その針に刺され傷ついたということだったのだろうと、今では思う。
その遊びをはじめてからは、ネズミと認識されたものは、少なくとも敵ではないということになり、それはわたしの認識能力を大いに鍛えた。いわば自分と他者を区別して認識することを学んだ。他者を認識しそれとの関係性を自分のなかで設定することで、社会というものが、現実あまりに一方的ではあるが、想定された。
それがまさに、自分の中にある可能性、友情とか愛情とかいうものを持つという可能性の始まりになったのだろう。
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