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「自責」に逃げるな

長年採用担当をしていて一番悲しいことは、現場の方に「なんでこんな人を採ったんだ」と言われること。

一つはもちろん、期待をかけて採用した人を貶される悲しさ、腹立たしさですが、本質的には受け入れ側の責任逃れな気持ちを感じて悲しい。

もちろん採用担当者としても「自責」で考えるのであれば、現場の人の声を真摯に受け止め、いくら認めたくなくても「採用ミス」と捉え、求める人物像や採用基準を変更・修正することはある程度は必要だと思う。

しかし・・・しかしだ。

採用ミスは悲しいけれど一部はあるのだろうが、一方で職場や仕事に適応できていない新人とその環境を丁寧に分析していくと、その原因が新人自体にあるのではなく、受け入れ体制の問題であることがままある。

最低限必要な導入教育をしていないということもあれば、配属をスキルベースマッチングだけで行い、パーソナリティマッチングの観点がないということもあれば、管理職層のマネジメント能力が低いこともあれば、そもそもチーム内で派閥争いのような分裂が生じており、一番弱い新人にしわ寄せが行って余計なストレスを生んでいるということもある。

なのに、こういう場合に、もし採用担当が「ガキの使い」のように現場の言うことを鵜呑みにして、現場における受け入れ側の「理不尽な」要求をそのまま受けて、求める人物像を変更するなどしたら、どのようなことが起こるだろうか。

例えば、現状の人材育成力の無い組織を「是」として、「一人で勝手に育つ人」を採用の基準とした場合どうなるか。

そういう「育つ人」が採用できているうちは良い。「お、採用わかってるじゃん。そうそうこういうやつが欲しかったんだよね」と褒められるかもしれない。そこで鼻の下を伸ばしていていいものか。

世の中に「一人で勝手に育つ人」はそうそういない。最初は採れていても、人材はいつか枯渇する。枯渇してきたことに気付かず、まずは採用費にドンドンコストをかけていき、おかしいおかしいと言いながら、巨額のお金を垂れ流した後で、やがて「そんな人はもういないのだ」と気づくことになる。

しかし、その頃には、「自走する組織」とか言ったりして、「一人で勝手に育つ人」を前提とした文化・風土や制度・ルールなどが、組織を覆ってしまっている。組織は慣性の法則に囚われているから、簡単にはそれらは変化させることはできない。

「一人で勝手に育つ人」という希少人材しか採用できない、人材のストライクゾーンが極めて狭い=人材開発力の大変弱い組織に変貌してしまていることだろう。

この結果を生み出したのは「ガキの使い」採用担当者だ。

もちろん「自責」はとても重要な考え方だ。環境がどうであれ、自分のコントロールできる範囲でできるだけのことをすることで、問題を解決しようとすることは、自己の成長を考えると良い行動であると思う。

しかし、本質的に「他」に問題があるときに、「自」を変えることで解決を図ってしまうと、問題の根本原因はそのまま温存されてしまうことになる。

某社では、間違った戦略であっても自責の現場社員たちが必死で頑張って達成してしまい、結果、間違った戦略が残り、現場社員は戦略が変更されずに苦しみ続ける・・・ということがよくあった。

戦略が間違っているに目標達成してしまうとは、とてもすごい組織力であるとも言える(実際そうです)が、ただ、それは短期的にはよくても、長期的に継続できることではなかろう。

時には、「前向きな他責」を持って、自分以外のところにある問題の本質にアプローチしていくことも大事だ。それは本質的には「他責」というよりは、「大きな自責」=「他人の問題までも自分が解決すべき対象と捉え、抵抗を受けながらも改善活動に取り組む」ということではないだろうか。

採用担当者や人事は(だけではないが)、安易な「自責」に逃げてはいけない。「ガキの使い」ではいけないのだ。

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