母と子、子育てについて考えさせられた映画。

ちょっと前に見た映画に対して、疑問に思うことが、今でもモヤモヤ心に残っているので、書き出してみようと思う。(ネタバレありなので注意です。)

貫地谷しほりさん主演の、「夕陽のあと」と言う映画。

産みの母親と育ての母親という、二人の母親が子供をとりあう(?)という構図。

東京で家庭と生活の困窮から赤ちゃんをネットカフェに置き去りにし、死のうとした実の母親(貫地谷しほり)。赤ちゃんは助けられ、里子に出される。実の母親は死ぬことはできず、いつか子供を引き取ることを目標に縫製工場で働いて、何とか生きる力を蓄えようとしていた。

一方、鹿児島にいる育ての母親は、不妊治療の末、里子としてその赤ちゃんを引き取って実の子のように可愛がって育てた。子供は7歳になり、いよいよ特別養子縁組で本当の息子として迎えたいと喜びに胸を躍らせている時、一年前からその地方に来て港の食堂で働いていた「都会から来た謎の女性」が実の母親であり、子供を迎えに来ていたことを知る。

揉めたり、色々あって、結局、子供は育ての母親のところに残り、実の母親は去る。

子供が大きくなったら、この子を返す、それまでは私が絶対に育ててみせる(育ての母)みたいな?感じで。いや、ここを私は誤解して覚えているのかもしれない。

その結末に、かなりの違和感を覚えた。

何でそうなっちゃうの?と。

ここからは反対意見を承知であくまで私の感想として書くけれど、

育ての母親と、産みの母親、どっちもいていいんじゃない?と思ったのだ。

実の親と知らなかった頃から、産みの母親のことも大好きなその子。

実の母は、そのまま一人で再び新しい土地に行って新しい仕事を探して、などという孤独で過酷な選択肢を選ばず、せっかく一年前に来て港の食堂で仕事してるんだし、村の人も優しくしてくれたりするんだから、そのままそこに残って、子供も行ったり来たりして、二人の母親で協力して育てちゃいかんの??と思ったのだ。

実は、映画の中でも、お前はみんなに育ててもらってるんだよ、と子供に伝えるシーンもあり、子供も納得してた様子。

なのに、なぜ?お母さんが二人いることを子供わかってるならなおさらだと思ったのだが・・・


現実的なところ、悲しみみたいなもの?を描きたかったのだろうか?

母親は、自分だけが母親なのだ、という、俗な所有欲が捨てられないものなのだろうか?

自分は、どちらの親の立場でもないので実際なってみないとわからないけど、どっちの立場でも、協力した方が最終的には嬉しいような気がする。

一度は捨ててしまった我が子を育てる覚悟があってもきっとたくさん不安がある。だったら、育ての母親が近くにいて、これまで育ってくれて・・・嫉妬以外の感情ならば、本来感謝しかないんではないか。

育ての母親も、自分のお腹を痛めて産んでいないから、本当のお母さんにならなきゃと言う強迫観念に近いコンプレックスが強くあるようだったが、そもそも里子、養子という子供の授かり方を求めた人なら、実の母親と協力するという新しくて幸せな選択肢も、選べるんじゃないだろうか。

これはかなり勝手な感情抜きの想像かもしれないが、例えば二人母親がいれば、子供の面倒を見るのにも、仕事するのにも、ちょっとお願い〜なんて、色々とお互い頼ったりできるし、価値観の違いもあったりして、実際の生活も面白くなるはずなのに。教育で衝突するだろうか?

実際、そうなったら私にも無理なのかなあ・・・わからない。

でも正直、色々理解できなかった。

子供について、一人もしくは両親という少ない大人が全責任を取る、みたいな社会形態は、早いとこ脱するべしなのではないだろうか。

もっと地域や、いろんな家族の形や、助け合って協力して多様なつながりの中で子供って育つべきじゃないのか。

最近、保育園に預けるという罪悪感について考えていたので、ますますそう思った。

子供はいろんな人と関わった方がいいんじゃないかって。



そんなの無理?

でももし、「そういうのが当たり前の社会」だったら感情もきっとついていくんだと思う。




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