この地球にいる限り。
空間、時間、建築。
かの有名な、ジークフリード・ギーディオンの、著名な歴史書。建築をかじった人なら、一度くらいは聞いたことがあるだろうと思うけど。
空間と、そして時間と、その制約に縛られて生きること、それが今の地球で生きるってこと。(この記事の文脈にはあまり関係がないけれど、建築というのは、そういう意味で地球独特のものかもしれない。空間と、時間を体現する、それを媒介するものだから。)
この三次元世界とは別のレイヤーがあって、そこには別の生き方をしている人もいるとしても。今の私の生きているレイヤーは、紛れもなく、空間と時間に制約を受けている。
こんな遠回しな言い方から始まっているけれど、書きたいのは、そんなことではなくてごくごく、個人的な人生の話。
私は、大学生活を二回に分けて送ったから、あの独特の、かつてはモラトリアムと呼ばれた特別な時間を二度味わうという幸福に恵まれた。
二回めの大学生活を味わう前に、別の時空間にいるような苦しい日々を過ごして、真っ暗闇だと思っていた人生の時間を過ごしたら、すっかり、浦島太郎みたいになってしまって、かつての友達が結婚したり、子供を産んだり、キャリアを積んだりしていることなどほとんど知らずに、ほとんど気にかけずに自分だけ時が止まっていたかのようだった。
だから気づけば、そういう”世間”から、とおく、遠く離れてしまった気がした。
ひょんなことから2回目の大学に通うことになり、恩師の元で再スタートをしてから、時が動き出した、そんな感じだった。
今まで、どこにいたのだろう。
そこで出会った、随分と世代の違うはずの今の旦那くんと一緒に、そこから他のみんなと同じように、人生を楽しみ、結婚をし、子供を産んで、”時間を過ごしてきた。”
出産後から、私の体力的な不調が始まった。いや、もしかしたらその前からかもしれない。
体力に任せて無理して疾走し続けてきた人生を、ちょっと緩めろと、そういう合図。
気づけば、ミッドエイジと呼ばれる歳になっていた。でも、子供がまだ小さくて、周りはほとんど若いお母さん(・・・と、思っていたほどでもなかったけど笑)
少し、時間軸が錯綜している。
子育てが終わってから味わうはずのことを、子育てが始まったばかりで一気に経験してる感じだ。
だから、冷静なはずの私も、多分パニックになっている。
今できることといえば、休むこと、目の前にあることを最小限のことにして効率化し、終わらせること。
自分の持っているパワーと時間とが、やらなきゃいけないことと見合ってない。そんな感じ。
じゃあ、何をしなければならなくなるか。
徹底的に、自分を向き合わざるを得ないのだ。
何が大事なことか、何が人生に不必要なことか、今まで必要だと思っていたことを、もう一度見直さねば、もうどうにもならないから。
体力任せに、生きてきたのだなあ。
そう、正直に認めよう。
体力的な、衰えを感じている。そしてそういう、自分に気づきたくない。
ずっと、いつだって、体力だけには自信があって、寝れば治ったし。けれども、私の身体は、きっと、衰え始めている。
認めたくないけれど、ミッドエイジ、そういうお年頃なのかもしれない。
それなのに、やろうとしている思考の方は、若い時から進歩していないので、それを見直さなければ、どんどん、体と心のバランスが崩れていってしまうのではないか。
そして・・・・・子育てというものは。
本当に、こればっかりは、やってみなければ、わからないというものだ。
いくら想像力に長けていても。
これからも未知の時間が続いている。
それに対して、未知の未来に対して、できることなど、今を犠牲にしてできることなど何もない。
ただ、ただ「今」を大事にすることだけしか、やるべきことはないように思う。
そして、この、杓子定規な、持っている時間の中でできることが限られる、という、地球独特の、時間と空間の制約をも、感覚だけは超えなければならない気がしている。
それは、非現実の夢の世界でふわふわするということではない。
もっと、超現実、まさに、超現実に近いといおうか。
それを表現するのには、「説明」だとか「解釈」に使われる言葉では、表すことはできないように思う。
できるとすれば、それは、もしかしたら、絵や記号や、詩や音楽なのかもしれない。
それは、形而上学的なもの、そういって仕舞えば、片付けられてしまう、そういうものなのかもしれない。
まだ、頭の中が混乱している。
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