見出し画像

ゾンビ、ごめん。

遠野遥さんの『破局』という作品を読んだ。僕はこの人の文体が好きで、処女作『改良』に続き、迷わず購入した。作風が好きだ、物語が好きだ、そういうことは多くあるけれど、文体が好き、ということはあまりないので出会えて嬉しい。

知人の大きなトートバックがベンチに置かれているシーン。主人公・陽介は、それを「疲れ切って眠った犬」のように思うのだけれど、作中ではこれが「疲れ切って眠った犬のような印象を私に与えた」と表現される。この物語は、一人称で語られているのだから、普通ならば「印象を受けた」ではないだろうか。

遠野作品の主人公は、しばしばこういう風に、自分のことを外側から見ている人間として描かれる。体はそこにあって、心は外側にある。この離人症感のある文体に、僕の心は惹かれているのだと思う。

僕が好きな作家である中村文則の初期作『銃』『遮光』『土の中の子供』の主人公たちも、漏れなく離人症感たっぷりに描かれていて、それらと通ずるものがあった。この文体はどうしてか癖になる。一文一文をガムみたいに噛んで味わいたい。そういう作品に出会えることは少ないので、備忘録も兼ねて感想を書こうと思った。

色んなレビューを読んでみると、陽介の人格がさまざまな捉え方をされていて面白いのだけれど、その多くが「サイコパス」だったり「性にのみ忠実な男」だったり、とにかくまともではないような人間として書かれている。そうした中、僕は少し異なる感じ方をしたので、その辺りについて、ネタバレも含めて書いてみたい。

まずこの陽介という男は、方々のレビューにある通り、性欲が強い。ただし強いのは性欲だけではない。執拗に肉を食らい、また物語のラストで「眠ることに決めた」とあることからも分かる通り、睡眠への執着もある。つまり、彼は欲求そのものに忠実な人間であると言うことができる。同時に、彼にとっての「楽しいこと」というのは、この欲求を満たすことのみであることも、物語から分かる。どうしてそういう人格になってしまったのかは不明だが、とにかく彼が作中で正の感情を受け取る際には、すべてこの三大欲求が関係している。

物語は、欲求の中でも性欲を軸に進んでいき、性欲がきっかけで「破局」を迎える。これだけ書くと身勝手な人間に感じるが、一方で、彼は要所要所で「交通事故で死ぬ人間がいなくなればいいと思った。働きすぎて精神や体を壊す人間がいなくなればいいと思った…」といった善良そうな祈りを心で唱えている。

それも、この祈りが最初に始まった地点は物語の序盤、「元交際相手の暮らすアパートに侵入して下着を盗んだとして、巡査部長の男が逮捕」されたというテレビの一報を耳にしたときだ。性欲に忠実な男が、同じく性欲に忠実な男のニュースを聞き、上記のような祈りを唱える。この奇妙な思考回路に、陽介の人格を知る大きなヒントが隠されているように僕は思った。

性欲に忠実な陽介と巡査部長。この大きな違いは、被害者がいるか、いないか、だ。もっと言うと、自分を律しているか、いないか、ということであり、この点に膨大な量の神経を割いているのが、陽介の性格的特徴のひとつと言える。

たとえば、彼女である麻衣子が「月のものの都合で」とセックスを拒んだときには無理強いをせず、むしろ体を気遣う。キャンパスで偶然知り合った新入生の灯(あかり)と酒の飲めるカフェで飲食した際にも、性欲が沸き上がっていたにも関わらず、未成年であるという点から相手の身体への影響を考え、酒を進めていない。このように、法的な観点だけでなく、より広い意味で、被害者を作らないための努力を行っている。

しかし、そんな陽介が「破局」する原因をつくったのも、また「性」なのだ。麻衣子と付き合っている際に、灯の家で灯にキスをし、麻衣子と別れ、灯と付き合っているときには麻衣子とセックスをする。結果これが露呈し、灯と「破局」することになる。

被害者を作らないように性を遂行してきた陽介が、麻衣子と灯、体を気遣うほど愛してきた二人の女性を被害者にしてしまう。という風に一見読めるのだが、それぞれの浮気シーンには、あるひとつの共通項がある。それは、性のきっかけが向こうから与えられているということだ。

灯と知り合った当初、灯の家に転がりこむきっかけを作ったのは、紛れもなく灯だ。ケーキを作ったから食べてほしいというものだったが、陽介は一度ここで「彼女に悪いから」と断っている。また灯と付き合っているときに麻衣子とセックスをしたのは、麻衣子が突然夜中に陽介の家に来たからだ。このときも灯に悪いからと断っている。しかしその結果、向こうからの押しと自身の性欲によって、行為に及んでしまう。

このことは、どのように捉えたらいいのだろうか。当然、一般的には浮気ではあり、また欲求に勝てなかったのも事実だ。しかし、それだけを表現したいのならば、向こうからの「押し」は要素として必要ない。ましてや、この「押し」は、麻衣子と灯の共通項となる行為なのだ。

この点は、最後まで読んでみると少し分かってくる。麻衣子が、灯と交際中の陽介に自らセックスを仕掛け、その事実を灯に告げ、灯が怒り、去っていく灯に弁解をしようと追いかけている途中で屈強な男が立ちはだかって取っ組み合いになり、殴って(恐らく)死なせてしまい、近くにいた女性に通報され、現行犯逮捕されてしまう。ラストはこういう流れになるのだが、考えてみれば、その引き金になったのがあの「押し」のシーンであり、見事に人生の「破局」に向かって強い風を吹かせている。

あれだけ善良なことを願い、人を傷つけないように生きてきた陽介という男が、人を傷つけて逮捕される。この道筋の起点に「押し」が配置されている。そう考えてみたときに、「不条理」という言葉が浮かんできた。

じつは、陽介は加害者などではなく、被害者なのではないか。運命、あるいは人間社会の被害者なのではないか。そのようなことを思った。

ここで、序盤の陽介の祈りを思い出した。複数個挙げられている祈りのどれもに、「被害者」がいる。事件事故など加害者が人間である場合のもあれば、「誰も認知症で子供の顔や名前を忘れたりしなくなればいいと思った」といった風に、自然の摂理や世界、人間の設計そのものが加害者である場合もある。

つまり、総じて「善良な人間が、何かの被害者になってしまうこと」を恐れ、陽介は祈っていたのだ。そしてまさに、善良な祈りを捧げていた陽介が、「押し」によって、最終的には加害者になる。ということは、押された陽介は、つまり「運命の」被害者ではないか、と僕は仮定した。そのうえで、陽介の奇妙な人格について考えてみた。

奇妙さのなかでも際立つのが、執拗なまでに「ルール」を守る姿勢だ。法を守るだけでなく、ラグビーの指導者とはこうあるべきだ、彼氏とはこうあるべきだ、公務員とはこうあるべきだ…といったように、自分に与えられた役割の最高法規を遵守している。恐らく陽介が、他のレビューで「自閉症」「サイコパス」などと言われる原因の一端はここだろう。

ではなぜ、そこまでして「ルール」を守るのか。恐らく、全員が「ルール」を完璧に守っていれば、少なくとも人間の行いによる被害者は生まれない、という考えが根底にあり、それをある意味で率先して守っていたのではないだろうか。だから、善良な人間が被害者になるたび、自分はもっとルールを守ろう、となる。

そうした折に、ある種自分の外側から「押し」というかたちでルールを逸脱する機会を与えられ、結果的に、不本意にも加害者になってしまった。もちろん「押し」を受けるか受けないかを陽介は選択することができるため、この時点では、不条理は成立しない。が、二度もこのようなことがあったものだから、やはり僕はそのことを疑った。

少し遠回りして、彼の人生について考えてみる。それはとにかく奇妙なものだ。役割の最高法規を遵守することと、三大欲求に従うことの二つを生きる柱としている人間なんて、そういない。そしてこの奇妙な人格を、遠野さんは「ゾンビ」と形容したのではないだろうか。

欲求を忠実に遂行するゾンビ、それ以外に楽しいことがないゾンビ、ルールを無思考に守るゾンビ。作中で犬や子供にやたらに見られるのも、それらの目には、陽介が本当にゾンビとして映っているからなのかもしれない。

それでも彼はゾンビとして懸命に生きている。平気で善良な人間を被害者にしてしまう人間界にいながらも、血に塗れ、ふらつきながら、踏ん張って生きている。

では、どうしてそんな精神状態にも関わらず、彼は生きていられるのだろうか。平気な顔で、日常生活を送れるのだろうか。何が彼を支えているのだろうか。

そこで僕が思ったのは、ゾンビなりに人間と戦おうとしているからではないだろうか、ということだ。いつか人間を倒し、もうこれ以上被害者が生まれないような世界が生まれることを祈る。そうした理想郷が頭のどこかにあるから、生きていられるのではないだろうか。そう思ったのは、灯とともに観た映画の中で、ゾンビが懸命に人間に食らいつくというシーンがあったからだ。

彼がラグビープレイヤーとして本当に倒したいのは、人を平気で傷つける人間なのだろう。だから、彼にとっての「対戦相手」は敵チームではなく、理不尽な人間であり、そのために当然に闘志以上のものを持つし、殺気も帯びるし、指導者であるにも関わらずストイックに筋トレに励む。優しい世の中になるように、と祈りながら。

そのようにして日々人間と戦いながら、ゾンビとして暮らしている。しかし、そうした精神状態は、健全とは言い難い。陽介にも、当然ガタが来た。そしてそのガタは、作中では「怒り」及び「悲しみ」として表現される。

まず、怒りについて。彼は自分がルールを守っている一方で、ルールを守らない人間に対して厳しい。電車で酒を飲み、魚肉ソーセージを食べながら舌打ちをして睨んできた中年男を、ラグビーで鍛えた筋力を駆使してドア際に追い詰めるなど、他罰的な行為に出る。

そして、悲しみについては、分かりやすく「泣く」というかたちで表れている。灯に温かい飲み物を買ってあげたいのに、近くにある自動販売機には冷たいものしかない。それが分かったときに泣くのだけれど、当然その出来事は感情のトリガーなだけであって、本当に泣いてる理由は、自分がゾンビだからだろう。人間の世界に生まれてしまったゾンビなのに、人間のような相貌で生きている。当然つらいはずだ。

彼がゾンビから人間にならない限り、これらの怒りや悲しみから逃れることができない。そして人間になる方法というのは、ひとつしかない。「対戦相手」を倒すことだ。

概念でしかない「対戦相手」だが、じつはしっかりキャラクターとしても登場している。麻衣子の回想の中に出てくる男だ。作中の表現では「冬なのに半袖半ズボンで、ハイソックスを履いて、まるでこれから何かの試合に出るような格好」「背が高くて筋肉もたっぷりついていた」とのことなので、ラグビー選手をイメージすることができ、さらにその男は、何の罪もない麻衣子に襲い来る。まさに陽介が想定している敵だ。

しかしその男は、あくまで回想の中の話であり、過去の人間である。どのようして出会うのだろう。そんなことを考えながら読んでいたら、ご丁寧に向こうから現れてくれた。それは、陽介が逮捕される原因をつくったあのスポーツマンだ。もちろん麻衣子の回想と現在では時期が大きく異なるので同一人物ではないだろうが、「対戦相手」の血を継ぎ、まさしく「人間」として陽介の前にやってきたのだろう。

しかし、タイミングが最悪だった。陽介は、灯に浮気の弁解をしようと、後を追っている最中だった。灯を守るように、正義を装うように、その男は陽介の前に現れた。当然、陽介は気が動顚し、コンディションは最悪だ。その場で取っ組み合いになり、偶然か意図的か、男の腕が陽介の首を強く打った。陽介はその報いを受けさせるため、男の股間を蹴り上げ、顎を殴る。その結果、(恐らく)男は絶命した。

これは最悪なことだ。普段ならばルールを守り、相手のファウルや挑発に乗らない陽介が、思いっきり乗っかり、取り返しのつかないファウルをしてしまった。通報を受け、警察官の格好をしたレフェリーがやって来る、結果、陽介は逮捕されることになった。

僕が、この小説の大きなテーマに不条理があると確信したのは、この部分だ。恋人の背を追いかけている最中に屈強な男が目の前に立ちはだかる確率とは、どんなものだろうか。短い期間で二度も「押し」を受ける確率はどんなものだろうか。それらを掛け合わせると何パーセントになるのだろうか。恐らくかなり少ない確率であり、僕はその少なさに、不条理を感じた。

競技場で横たわる陽介は、空を見上げ、心地よくなる。当然だろう。彼はゾンビであり、下を向きながら生きてきたのだ。試合が終わり、もう戦わなくていいのだという安堵感がやってきて、陽介は眠くなる。

あの「押し」さえなければ、陽介はこんなコンディションで試合に臨むことはなかった。この男さえ現れなければ、陽介は善良でいれた。僕はそう思い、本当に切なくなった。

「対戦相手」は、やはりどこまでも卑劣だった。不用意なタイミングで現れ、善良な陽介の祈りを捻じ曲げ、優しい世界が作られる前に壊した。でもそれが正解だ。この物語は、ちゃんと正解した。だって世界とは、そういう場所だ。

でも僕たちは、人間として生きていかなければならない。きっと陽介は、もっと、膝や、岩永や、佐々木を頼るべきだったと思う。被害者にも加害者にも属さない彼らを心から頼れたら、少しは楽になれたのではないだろうか。もっと言うと、彼はラグビーをやるべきではなかった。彼が日ごろ感じている不条理は、きっと戦うことでは消化されない。

個人的には、陰毛を「彼」と呼んでしまうその感性を活かして、絵描きや、それこそ小説家など、芸術に浸ったほうが良かったのではないか。彼の怒りや悲しみを、世の不条理を、健全に吸い込んでくれるのは芸術ではないだろうか。

彼はきっと、刑務所の中でも、横たわりながら汚い天井を見、善良な人間が何かの被害に遭わないように祈っているのだろう。来るはずもないのだけれど、陽介のような人間が、綺麗な空を見上げながら生きていける世界になってほしいと、僕は心から思う。来るはずもないのだけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?