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島田、目を覚ませ。


遠野遥『教育』の感想をつづりたい。つづる、というか、感覚としては嘔吐に近いのかもしれない。


約80ページの中で唯一、ドッグイヤー、ページの端を折っている箇所がある。屋上プールに設けられているドリンクバーで、勇人がアイスコーヒーにミルクを注ぐ一幕で、彼はなぜかポーションの蓋を開けたのち、ミルクを入れずにそれをゴミ箱に放ってしまう。彼はこの工程を「①ポーションの蓋を開ける、②コーヒーにミルクを注ぐ、③空のポーションをゴミ箱に捨てる」と三つのステップに分けて考え、「この二つ目のステップを抜かしてしまったのだ」という自己確認のみで済ませてしまう。


「おいちょっと待て」というつっこみは遠野文学において必ず求められるし、この作品に関して言えば冒頭から要請されるのだが、なかでも際立って、さすがに待ってほしいシーンだった。勇人の首根っこを掴むような感覚で、ページの端を折った。


終盤、似たような文脈で丸付き数字が出てくる箇所があり、対比することで真意が浮かび上がってくるわけだけれど、そうしてしまっては作品の面白みが軽減されるように感じられた。『改良』『破局』『教育』と徐々に作品が太ってきている、つまり物語の骨格を覆う肉が徐々に肥大化し、脂ぎってきていて、それこそが著者の作品への態度で、当然その態度に順接したほうが面白いに決まっていると思ったからだ。


以来ドッグイヤーは止め、作品世界に沈んでいくことにした。まず多くの人が読みながら感じたのは、「自分はいま何を読まされてるんだ?」というものではないだろうか。僕の場合、この感覚はお笑い芸人のコントや漫才を見た時に起こる「自分はいま何を観させられてるんだ」というものに似ている。


最近では、お笑いコンビ・ニッポンの社長のコント「ゴルフセンター」を観たときに起こった。このコントでは、券売機の機種が変わったことでボールの購入ができず苛立った客が係員に難癖をつけ、一旦は丁寧に説明した係員がやがて報復としてチェーンソーで客を刈りに来るという話で、難癖→チェーンソー→難癖、というラリーが数回つづく。


この設定につっこみはいない。つっこみがいないということは基本的にその世界は無秩序であり、その世界のカオスを焦ったく感じた客が内心でつっこみを入れていくことになる。そのひとつで、かつ最も手軽なつっこみが「自分はいま何を観させられてるんだ」ではないかと思う。


『教育』の中にも、つっこみはほとんど存在しない。多くの物語は視点人物がつっこみを担当することが多い気がするが、勇人はそれを担わないばかりか世界に加担している、つまりボケを担当している。強いて言うのなら海や真夏がそれに近く、とくに真夏は、最後に盛大なつっこみを勇人にお見舞いする。が、勇人はその一連の言動がそもそもつっこみであることに気づかず、つまらないボケを重ねて優秀なつっこみを潰し、大勢の観客を背に無理やり暗幕を下ろす。だから責任感のある読者は、つっこまざるを得ない。


そのことは大変心地が良く、楽しい。どんな作品でも、自分がその世界の一端を担えるのなら、それほど楽しいことはないだろう。


もうひとつ、この感覚は、映画を鑑賞した際にも時おり起こる。最近ではヨルゴス・ランティモス監督『ロブスター』を観たときに起こった。この作品で描かれるのは、家庭を持ち、子孫を残すことが義務付けられた近未来。妻に捨てられてしまった男は街のルールに従い、はずれにあるホテルへと送られる。そこでは45日以内に自分の配偶者となる人を見つけなければならず、見つけられなかった場合は動物に姿を変えられてしまうという運命が待っているという話で、「常識」という尺度が劇中に存在しない。


この作品も、主人公がこの世界に疑いを持たず、むしろ積極的に順応していこうという姿勢であり、他の登場人物もその生活に迷いはない。だから鑑賞者は「いま何を観させられてるんだ…」とでも思わなければ息が詰まってしまうと同時に、そう思うことで、不条理を破りし者、つまり「常識人」として作品世界に埋没し、当事者意識から一種の快感を得る。


考えてみれば、ヨルゴス・ランティモス監督作品はほとんどそうだし、デヴィッド・リンチも、ラース・フォン・トリアーも、フランソワ・オゾンも、日本では、園子温あたりが、それに該当しそうだ。映画の世界には、そういう世界を作り出す名手が、たくさんいる。


一転、小説で「何を読まされてるんだ」と本気で思ったのは、これが初めてかもしれない。その理由は、どう考えても僕の読書経験の浅さが起因しているわけだけれど、今後このような作品に出会うことはあるのだろうか。


小説でも不条理が描かれたものは無数にあるけれど、あまりに不条理すぎると著者自身につっこみ待ちの姿勢を感じるので、読者としてつっこみを入れようとは思わない。『教育』はその点、作品世界にわずかに散らつく著者の影が無表情なので、塩梅がいい。


さらに不条理な世界でありながら、我々が実生活を送っている現実にあるものが幾つも出てくるので、そのことが接点となり、近からず遠からず、という印象を受ける。外の世界で起きているらしい「感染症」や、学校支配への圧力として用いられる「オリンピック」などは当然それに当たるのだが、むしろそれ以上に、鳩やシャンメリー、アイスコーヒー、鮭、不思議な国のアリスといった細かな要素が一層のリアリティを与えている。


とくにバドミントンコートの外を歩いている鳩を認めるシーンは印象的で、勇人はこの鳩のサイズをカラスと比較し「不当に大きい」と感じるのだが、こういった感覚は現実世界でも感じうることで、この感性レベルでの現実と非現実の接続が、作品世界への吸引力になっている。


この「接続」は以前にも感じたことがあると思い至り、記憶を辿ってみると、たとえば同じく芥川賞作家・高橋弘希の小説が浮かび上がってきた。同賞を受賞した『送り火』という作品は、地方の閉鎖性の中で行われる宗教的とも言えそうな非現実的な暴力の数々が描かれ、一見都会に住んでいる読者とは接点がないように感じられる。が、たとえば作中に「深田恭子」という固有名詞が会話の中で出てきたりするので「あ、こちらとつながっていたのか」と一気に現実感を覚えたりする。この「接続」を行うファクターが両氏ともに絶妙なのだ。


羽根田について考えてみたい。作中で、唯一役割を与えられていないかのような、ふわふわと作中を漂っている、このビニール袋みたいな存在が気になって仕方がない。同性の前で性器を露出することを厭わず、ことあるごとに魚のぬいぐるみを無言で放り投げてきて、でも成績は着実に伸ばしていく。こんな気持ちの悪い人間が、いまだかつてフィクションを含めていただろうか。


かなり偏見が入っているが、もし同じクラスに、臆すことなく性器をあらわにし、魚のぬいぐるみを定期的に編み上げ、それを必要としていない人間に差し出してくる人間がいたら、そいつは絶対に成績が悪い。着実に進級などするわけがない。そういう意味で個人的には、もっとも整合性が取れていないキャラクターとして映った。


ただそもそもこの学校そのものが、超能力向上を目的としていて、その最たる手段が「1日3回以上のオーガズム」なのだから、まったく整合性が取れていない。そういう意味で、羽根田は最もこの作品らしいキャラクターと言えるのかもしれない。間違いなくこの学校での「リア充」だし、スクールライフをしっかり謳歌している。もしこの学校に入学する機会が与えられたら、羽根田のように伸び伸びとやっていきたい。


せっかくなので、島田についても考えてみたい。個人的には、作中で一番哀愁が漂っていたように感じられるキャラクターで、その理由を考えてみると、最も「教育」されている人間だからだと思い至った。


本来教育を受ける側である生徒の大多数は、じつはそれなりに楽しそうに学校生活を送っていて、仮に疑問を抱いたのであれば、脱走をする、デモを起こす、といった手段に訴えることで、青春を謳歌することすらできそうな気がしたが、むしろ教育をする側の島田は、しかし「先生」ではなく、何の役職も与えられず、ただの「島田」として、脳を抜き取られたみたいにAI的な動作で生徒を打ってゆく。この世界の「教育」の一番最初の被害者のように思えた。


島田はおそらく、その身体のいずこかにスイッチのようなものを備えていて、例えばそれは肩甲骨のあたりだったりするので、島田は押すことができない。押すことができるのは「先生」のみで、そのスイッチ次第で島田をいかようにもできる。「先生」は、その遥か上にいる「声の主」の手先であるが、島田は先生の手先というよりは、所有物にさえ映る。もし『教育』に続編があれば、島田は生徒によるデモ活動の過程で警棒を奪われ、痴漢の加害者みたいに集団で取り押さえられリンチされるだろう。というか島田は、この学校のOBだろう。目を覚ませ。

コーギーの正式名称、ウェルシュ・コーギーなんだ…。ああ面白かった。


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