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「穴があったら入りたい」人に穴を差し出す男

 田中はリュックサックを背負い、街を歩く。リュックサックの中には穴がいくつか入っている。田中は「穴があったら入りたい」と話す人の前に、実際に穴を出現させるアルバイトをやっていた。だから田中は、今日も「穴があったら入りたい」人を探し、穴を提供する。早速声が聞こえてきた。
「大変失礼しました! 穴があったら入りたいくらいです…」
 田中は聞き耳を立てる。交差点の前の歩道で、女が男に謝っている。どうやら知り合いと間違え、背中を叩いて「なにしてんのこんなとこで!」と話しかけてしまったようだ。男は「ぜんぜん気にしないでください」と歩き出そうとしている。そこに田中がすかさず登場する。女の目の前に立つとリュックサックから穴を取り出し、地面に置く。直径はマンホールほどのサイズで、深さは一メートル三十センチ。大人が入って、胸から上が出るくらいを想定している。女と男は、田中を怪訝な顔で見る。田中は男に用はないので、背を向け、女の顔をじっと見る。
「穴です」
「はい?」
「こちら、穴になります」
「ごめんなさい意味がわからないんですけど」
「あなたいま『穴があったら入りたい』とおっしゃいましたよね」
「ああ、まあ」
「穴です」
「はい?」
「こちらが、穴になります」
 女は穴をじっと見つめる。
「これなんなんですか」
「穴です」
「それはそうなんですけど」
「入らないんですか?」
「え?」
「あなたが所望していた穴です」
「いやあ」
「嘘ってことですか?」
「はい?」
「『穴があったら入りたい』は嘘だったってことですか」
「いやあ、そういうわけじゃあ」
「入らないんですか」
「いやあ」
「入らないと」
「いやまあ」
「入りますか?」
「入るって、どうやって」
「どうやってもこうやっても、体を入れるだけです」
「ああ。いやでも…」
 田中はため息をつき、
「あなたには失望しました」
「失望?」
「もう二度と『穴があったら入りたい』と言わないでください」
「ああ、はい」
 田中は呆然と立ち尽くす男をちらっと見、女に視線を戻す。
「では穴を回収します」
「あ、はい」
 田中は屈み、穴をふたたびリュックにしまい込む。二人に背を向けて顔だけ振り返り、「では」信号が青になったのを確認し、横断歩道をわたっていく。田中は、やれやれ、と思う。みんなそうだ。けっきょく穴には入らないんだ。じつは、一人たりとも、穴に入っていない。
 しばらく歩く。この仕事のミッションに共感してバイトに申し込んだ。田中はあらためて思う。なにが「穴があったら入りたい」だよ。無責任に言いやがって。地面に唾を吐く。この仕事をしている人は、みなプライドを持ってやっている。穴を必要としている人へ、穴を提供する。シンプルな需給のマッチだ。なぜそんな簡単なことができないのだろう。穴に入れよ。所望するなら入れよ。入れ、入れ! すると、
「あの」
 背後から声が聞こえ、振り返ると女が立っていた。見たことも、会ったこともない女だった。女の顔には血が大量に付いている。
「え?」
「あの」
「はい」
「もしかして、穴、持ってますか?」
「穴…はい」
「ください」
「え?」
「穴をください」
「私、いま穴があったら入りたいって、思ってるんです。なぜかと言うと…」
 女いわく、通りを歩いていたところ、間違えて男の顔をこぶし大の石で何度も殴ってしまったのだという。本当は別の男を殴ろうとしていた。私はなんて馬鹿なことをしたんだろう。殴る相手を間違えるなんて…。恥ずかしい。私としたことが恥ずかしい。しかも相手の男は死んでしまった。間違えて人を殺すなんて恥ずかしい。なんて恥ずかしいことを…。
「穴、おねがいします」
 このように向こうから求められたのは初めてで、田中は少し戸惑いつつも、リュックから穴を出す。女は「穴だあ。すごーい」胸の前で小さく手を叩いている。地面に置いてやると、女は穴の中に手を入れたり引っ込めたりする。「え、すごい。本当に穴だあ」ゆっくりとかがみ、穴のふちに座って、足をぶらぶらとさせる。
「え、入っていいですか?」
「あ、はい」
 田中は初めて人に貢献できているようで、気分が高揚してくる。女が腰をわずかに浮かせ、穴に入る。湯船のように手を出し、空を見上げる。
「わあすごーい」
 田中は女の、気持ち良さそうな顔を見つめる。
「ああ、なんか、どうでもよくなってくる。恥ずかしいとか…」
 女の顔に付いた血が、陽光を反射し、ちらちらと光っている。女が、
「一緒に入ります?」
「え」
「入りません?」
「え、いいんですか?」
「はい」
 女が横にずれる。田中は穴に入ってみる。穴を出すことはあっても、入るのははじめてだった。本当に湯船に浸かっているように温かい。どうでもよくなってくる。すべてのことが。別にいいじゃないか。「穴があったら入りたい」と言うだけ言っても。自由じゃないか。そんな気にすらなってくる。女はしばらく空を見つめたのち、立ち上がり、
「わたし、そろそろ行きます」
「どこに」
 右手に持った石を田中の顔の前に掲げ、
「男の顔を、殴りに」
「ああ」
「今度は間違いませんよ」
 穴から出、横断歩道をすたすたとわたっていく。
 田中はしばらく穴の中に入り、空を見上げていた。そろそろ出ようと思い、穴から上がると、遠くで男の悲鳴が聞こえた。女は間違えなかったのだ、と思う。もうあの女が穴を必要とすることはない。それは自分も同じかもしれなかった。

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