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悪魔と人と物語

今年はなんか報道1930ばかり見ていたような気がする。今年のニュースは日本的にはやっぱりこのニュースに尽きると思っていて、しかも現在進行形である。おおよそのストーリーはそれまで見聞きしていた内容と同じだった。父、晋太郎の敗北を目の当たりにした9才の晋三少年は勝利への執着と想いというものを人一倍持っていた。初めの内閣では距離を置いていた(と思われる)統一教会に対して野党に転落するという敗北経験ののち、使えるものはすべて使うという方法で宗教を利用することを決意し、なりふり構わず選挙戦に挑むことになる...。

デンジは瀕死の状態だったチェンソーの悪魔「ポチタ」と契約を交わす。

今年というか去年あたりから我が家ではチェンソーマンが流行っていた。
僕らは夫婦でお財布が別なのだがこの作品に限っては公共予算を使ってチェンソーマンを全巻購入した。親のいない少年デンジは生き残るためにチェンソーの悪魔と契約しデビルハンターとしてヤクザに雇われている。搾取され社会の底辺で生きているデンジだったが、ふとしたことから契約した悪魔と同化し公務員である公安のデビルハンターとして働くことになる、、というお話である。このお話では様々な悪魔が様々なバックグラウンドを持つ人間と契約し、悪魔と契約した人間や半人半悪魔の魔人がいずれの側にもいて戦いを繰り広げていく。やがて戦いの中で国家を超えた力も持つ悪魔と人間の抗争にデンジは巻き込まれていく。

悪魔と契約するからには皆それなりのバックグランドがあるのだけれど、一つ一つのお話が丁寧に描かれていてとても魅力的である。藤本タツキ先生自身がかなりの映画好きということもあってか、シナリオには意外性と共感性がバランス良く含まれておりエンターテイメント性が高い。未読の方はNetflixでアニメ版からでも良いので原作のコミックスも読んでほしい。アニメでは漫画で再現できなかったダイナミックな動きが見られてこれもまたいい。Mappa(制作会社)も力が入っている。

悪魔に魂を売った男がその報いを受けた。漫画と重ねるつもりはないが、僕の目には今年7月の事件はそう映った。そして殺した側にもストーリー(ナラティブ)があって、それは多くの人の同情と共感を揺さぶるものだった。

ストーリーと言うのは非常に強力だ。
人は人を信じないしプロパガンダも信用しない。ただただ、自分の中のストーリーを信じるのである。そして自分の中のそのストーリーと共通性を見出すと他者のストーリーも信じるようになる。本来、宗教は教養がなくてもルールや規範を守って人類が平和的に生活していけるように最適化されたストーリーを提供することで、規則ではないもので秩序を作り出そうとする試みであったと自分は解釈している。

山上の母は夫と息子を自死で亡くし、自らがそれまで理想とした人生やステータスが獲得不可能だとわかった瞬間、心の隙間につけ入られた。(週間文春より)彼らの提供する教義とストーリーが自分のストーリーに合致していると感じたのだろう。自分の今の不遇な境遇には何か理由があるはずだ。そう考えたわけだ。もちろんすべてのことには原因がある。しかしストーリーというのは書こうとしてみるとわかるが自分のストーリーだけでなく他者のストーリーも複雑に絡み合っているので、絵本のようには大きな卵割ってオムレツ作りましたで終わりという風にはいかないのだ。彼女を嘲笑するのは簡単だが、自分が悲しみに打ちひしがれた時に差し出されたストーリーにしがみつかない自信は私にはない。

"私たちは自らにこう問い続けるべきです。『この作品は私たちを操ろうとしているのか? それとも人間のある側面に関する真実を語っているのか?』とね」" カズオ イシグロ

クーリエ・ジャポン

おそらく政治の中から完全に宗教を排除するということは難しいだろう、と感じている。(自民だけではなく立憲、共産党、れいわも含めてカルト的な要素はある※1)しかしながら市民は常にそうした危険性に留意して、政治や宗教に常に関心を持ち、観察し、管理し、「丁寧に対応」してゆくべきなのではないだろうか。

そしてこうした出来事を「テロの脅威」とか「カルト宗教の危険性」といったうわべだけの問題に誘導するたくらみにも留意した上で、もっとその根源にある「物語の持つ力」ということについて私たちは理解を深めるべきなのではないだろうか。

※1. 各種政党、政治家との繋がりについてはやや日刊カルト新聞が詳しいです。判断基準などについても明記されています。
藤倉善郎、鈴木エイト主筆

以上、今年の所感としてまとめてみた。