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乗り継いで乗り継いで、かつての日本の玄関口南島原へ(2022.12.3)

年に一度の福岡出張。その機会にショートトリップをするのが恒例です。今回は土日をつけられたので1泊2日で計画する場所は、島原半島です。
キリスト教関連遺産として世界遺産となっている原城跡、そしてかつて地質学を学んだ身として、世界ジオパーク、大火砕流の地である島原を見学することが目的です。

出張先は福岡なので、福岡から島原への道筋を検討した結果、西鉄と高速船を乗り継いで行くことができることがわかったので、片道8時間弱の時間をかけて向かいました。

早朝5時前に自宅を出発。羽田空港7:00発の福岡行きに搭乗。天気が良くて、奥秩父の山々や南アルプス、中央アルプスの山を眺めて西へ西へ。眠いはずなのに空中散歩が楽しすぎて一睡もできず。
九州上空に来ても運よく良い天気で、期待していた世界遺産沖ノ島が遠くに見えました。

沖ノ島。港や鳥居代わりの小島も見えた

福岡から地下鉄で天神へ、西鉄大牟田線に乗り換えて終点大牟田へ。さらにバスに乗り換えて三池港に向かいます。三池島原ラインとして天神からはきれいに乗り継げるように設定されています。
とはいうものの、三池港の接続時間は3分。これで切符を買って船に乗るのはせわしないですね。

大牟田駅は終着駅
西口を出てすぐにバス停があり、三池港直行バスが接続する
高速艇のターミナル
切符を買っていたら最後の乗客になってしまったので、駆け込み乗船
中はこんな感じで結構な席数がある

この三池港発の高速船を利用した意図の一つは、明治産業遺産のひとつ、三池港を海から見たかったから。内港との間の三池港閘門などを船の上から見ることができました。

内港と外港を隔てる水門
パナマ運河指揮を取り入れたという三池港閘門
防砂のために作られた長い防砂堤

港を出発するとあっという間に内港の施設が遠くなり、長い長い防砂堤に囲まれた水路を進みます。それを抜けると有明海となり、行く手の島原半島が見えてきます。思いのほか複雑な山並みが見えました。

いざ島原へ
近づくと雲仙普賢岳と眉山の麓に島原の街が見えてくる
美しい島原城が修復のために覆われている

島原外港に時間通りに到着。三池から50分の船旅。雄大な海と山の風景の中、雲仙岳が近づいてくる感じはとても良いアプローチです。潮の流れのためか、あちこちに蜃気楼のようなものが見えているのも興味深いものでした。
陸に上がって、まずは南島原へ向かい、世界遺産となった原城跡を目指します。

青空が広がり始めて、雲仙岳の平成新山の溶岩ドームがくっきりと見えてきた

原城跡は車で入れるようにはなっているけれど、本丸周辺には駐車場がなく、海側の温泉施設周辺の駐車場から大手門跡を経由して歩いていく。

三の丸跡。本丸以外は石垣はなく土塀だったとのこと
本丸方向を望む。畑などもあり、かつては住宅地だったというのも分かる
島原の乱の際に残された遺骨を拾い集めて供養した「ホネカミ地蔵」

本丸跡の前にガイドステーションがあり、地元のガイドさんの案内を受けられる。一人500円。こういう城跡のように今の姿を見ただけではわからない遺跡は、ガイドさんにいていただくと圧倒的に理解が深まるので、お願いすることにしました。

石垣に用いられた「鏡石」という装飾技法
本丸正門の礎石。立派な門が立っていたことがうかがえる
埋(うずみ)門跡。正門の次の門で、島原の乱後に埋められていたそう
原城本丸から天草の島々を望む
本丸から三の丸方向と雲仙岳を望む
天草四郎像
ザビエル、天草四郎、四郎の姉の像
本丸の石垣

島原の乱って、教科書で走っていてもなかなかよく勉強する機会もなかったが、キリスト教徒の一揆というよりも、重税に苦しむ農民一揆とキリスト教が融合してできた大農民反乱ということなのだとよくわかりました。
最終的には幕府軍により全滅させられたということも初めて知りました。その中で、10代の天草四郎を持ち上げ、指導者にしたようですが、最後には殺されて、母親が首実検において号泣したという話を聞きました。教科書に1行しか書かれていないことでも、深く掘り下げるといろいろなことがあるものです。

続いで有馬キリシタン遺産記念館に向かいました。ここでは原城や日野江城に関する展示がありました。受付の方に勧められて、南島原歴史遺産(500円)を購入。原城のガイドさんも持っていた冊子でした。

シアターで上映される映像で、いろいろ勉強ができました。残念なのはキリスト教関連の遺物はあまり多くないこと。あら上出土の黄金の十字架はレプリカだけでも置いてほしい

その後、日野江城跡へ。こちらは世界遺産からは漏れましたが、キリシタン大名の有馬晴信が改築し、金箔の瓦や仏塔を石材に浸かったことでキリスト教全盛期のものと思われる石段などが残っているそうです。残念ながら今は保護のために埋められているそうです。

日野江城址からの展望

島原半島各地にキリシタン墓碑が残っていると記念館で教えてもらい、少し時間があったので、一つだけ行ってみようと、国指定史跡に指定される西有家町須川のキリシタン墓碑を目指しました。

小さな看板がありました。これを辿っていくと、普通の墓地に入ります。墓地の中には看板はなく、何とかそれらしいものを探して墓地の細道を歩くしかありません
屋根が見えたので、それかと思って近づくと、正解でした
見えにくいが、西暦を交えたローマ字を使った碑文は日本最古のものだそう。それ以外に花十字紋がうっすらと見えた

最後に日野江城の近くまで戻り、セミナリヨ跡の石碑を見学して、キリスト教遺産巡りは終了。イエズス会の神学校として作られたセミナリヨは、信長のいる安土と、この島原半島の有馬に作られたのだとか。
私は全く知らなかったのですが、出島が鎖国によって外国との玄関口になる前までは、南島原の口之津が外国との重要な港になっていたそうで、この地域が、都とは別に大きな役割を持つ場所だったことが、たった一つの石碑で感じることができました。

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