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「場」と「ルール」

脱出ゲーム

 ゲームや遊びを成立させる上で大切な要素はたくさんあると思いますが、その中でも「場」と「ルール」がじぶんは大事だと思っています、と言う話。

 先日、オンラインでインタラクティブコンテンツ(視聴者参加型コンテンツ)の「オンライン脱出ゲーム」に参加したのですが、思っていた以上にじぶんは楽しむことができず、どうして楽しめなかったのかをずっと考えていました。
 そのコンテンツ自体は「面白い」とは思うものの「楽しくはない」と感じた。
「面白い」と「楽しい」はとても近くにありながら、両方を成立させるのは案外難しいのかもしれない。

「面白い」し「楽しい」
 コンテンツそのものの質が高く、楽しんで遊ぶことができる。

「面白い」けど「楽しくない」
 質は高いけれど、楽しむためには向き不向きがある。

「面白くない」けど「楽しい」
 万人受けするコンテンツではないけれど、何故か楽しい。

「面白くない」し「楽しくない」
 その人にとって、合わないコンテンツ。

こんな感じになるかなと。

 で、なぜじぶんはインタラクティブなコンテンツを
「面白い」けど「楽しくない」
と、感じてしまうのか。

 いろいろ考えている中で、「場」と「ルール」と言う考え方に行き着きました。じぶんは「場」を楽しむのではなく、「ルール」を楽しむ人間なんだなと。
「場」と「ルール」って同じでは?
と聞かれるとうまく説明できないのですが、今回参加した「脱出ゲーム」のようなものだと
「用意された謎を探し出し、それらを解いてゴールする。」

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この場合、「場」は用意された謎。「ルール」はそれらを解いてゴールする。

「脱出ゲーム」に参加したことのある人なら、何となく伝わると思うのですが、「脱出ゲーム」慣れしている人と、慣れていない人とでは「場」と「ルール」の理解の差が違いすぎて、戸惑うことがあったりするんですよね。

 慣れてる人は、脱出ゲームの楽しみかたを知っていて、あれやこれやひっくり返していきなり謎を探し始めることができるんですよね。

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その勢いに慣れていない人は圧されて、身動き取れなくなるってのがよくあることではないでしょうか。じぶんがそうなるだけかもしれませんが。

 じぶんはどうも脱出ゲームの「場」が苦手なようで、あれこれひっくり返して謎を探し出すよりも、「ルール」を楽しみたい。謎を解くことや、その謎を組み合わせて次の謎を解き明かすこと、双方向性を利用して参加者同士や提供者とコミュニケーションをとって想定外の問題を起こす、などなど「ルール」を利用したり、逆手に取ったりして遊びたいのに、「場」をひっくり返して謎を探すパートで興が削がれてしまう。
 あの「場」にカタルシスを感じないんですよねぇ。あれこれひっくり返すことに必然性を感じない。「場」を無茶苦茶にする「ルール」無用な感じが苦手なのかな。そんだけ無茶苦茶にするなら、閉じ込められた状況を力で解決して出て行けば良いじゃん、ってなるんですよね。「ルール」が活きてないのが楽しくないんだよなぁ。
 まぁ、これに関してはじぶんがただただ「脱出ゲーム」に向いてないってだけなのですが。

 今回参加したコンテンツは、「場」がうまく出来ていたとは思うのだけれど、凝りすぎてどこに集中していいか分からず、「ルール」そのものを楽しむまでのハードルが高すぎて、着いて行けないって感じでしたね。どんどん難易度を上げることに集中しすぎて廃れていったアーケードゲームの末路のようでした。

と、

ほぼほぼ脱出ゲームへの愚痴になってしまい、「場」と「ルール」の話がそれてしまいました。遊びって「場」を工夫するか、「ルール」を工夫するか。
「鬼ごっこ」も「鬼を決めて、それをどう受け渡し合うか」って言う、大まかな設定があって、それをどんな「場」でするかで「ルール」を足したり、制限したりして、いろんな「鬼ごっこ」を遊べる。
 単純な遊びになればなるほど「場」のウェイトは軽くなって「ルール」が面白さと楽しさを決める重要な要素になってしまいますが、遊びが複雑に慣ればなるほど「場」が占める割合が増してきます。そうなると、「場」を工夫することに注視してしまい、「ルール」からどんどん逸脱してしまう。楽しんで欲しかったものが、ぶれていってしまいがちなのかなと。

 何かを考えるときに「何を楽しんでもらうか」をしっかりと捉えて、作っていかないといけないのかもしれませんね。

それでは、本日はこの辺りで。

失礼します。

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