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プレイアブル 017『ギャップを自己認識→受容→表現する』

それまで楽しそうに少し抜けたようなこともしながら話していても、玉子を解く時になると急にスイッチが入ったように真剣な眼差しで無口になり、ひたすら集中してだし焼き玉子を作る。そんな私を見て人は吹き出して笑うことが多かった。私は何故人が私を笑うのかがよく分からなかった。だから傷ついてしまうことが少なくなかった。
真剣にすき焼きを炊いていたかと思うと、突然うっかりしたミスに気づいてあらっ??あれれれれ???となることがある。それが私だ。どう頑張っても、どこかで何かが抜けてしまうことが少なくない。真面目に真剣にやっているのに、完璧になかなか出来ない。そんな自分が悔しく悲しいのだが、最近は何故か周りの人達がそんな私を見ても暖かく笑って慰めたり励ましてくれるようになってきた。

なぜ周りが変化したように感じるのかなと振り返ってみた時に、ありのままの自分自身の感情を幼少期や看護師時代と比べて素直に出したり伝えたりする機会がここ最近断然増えてきたからかも知れないとふと思った。あくまでもなんとなく思っただけであり仮説なのだが、その仮説に基づいて今日は溢れるがままに過去から現在までの色々な自己認識の変遷を回顧してみたくなったので記録してみようと思う。少し楽ではない作業ではあるし溢れるがままの回顧なので短絡的な部分もあるとは思う。しかし、それこそが素の自分自身の思考なので、それを客観的に認めるためにも敢えて言葉を選ばず自己認識を進めるために記録に残せたらと思う。いつもプレイアブルと言いながら、実際に書くことは自分にとっては勇気が要ることばかりだが、とにかく素の自分の心が自分の身体にピタッとくるまで言葉を出し続けることはどうしてもやりたいことなので自分のために続けてみようと思っている。

幼少期に、自分自身が天真爛漫に存在していてはいけない、家でも学校でもどこにいても、常に人の顔色をしっかりと伺って周りを波立たせないように生きなければならない、と思ってしまった瞬間があった。そもそもお転婆で、高いところや危ないギリギリの遊びをするのが大好きな私だった。大はしゃぎで笑いながら走り回っていたかと思ったら突然思いっきり躓いてすっ転んで、痛くて泣いて、そんな自分が自分でおかしくて泣きながら自分を笑ったりする。周りがイライラしたり呆れて笑ったり、それでもそこまで気にせずキャッキャッしていた。そんな自分だったけれど、家庭環境に変化があり、ある日突然フタをしてしまったのだ。フタをしたところでそんな私の変化に気づいてくれる人は周りにはいなかったのだけれど。

その頃から、優等生であれば家族や学校でも人から自分のことを必要としてもらえるという感覚が芽生え、完璧を目指すようになった。初対面から完璧な優等生を目指しすぎて、周りからもなんだかすごい奴みたいだと勘違いされて認知されると、うっかりしてしまった天然ミスを激しく非難されたり白い目で見られたりすることもあった。陰で演技か?腹黒いな、なんて言われたりしたこともかつてあった。そんな演技をしたところで、誰がなんの得をするのか、言っている人の意図が私には今でもさっぱり分からないのだが、私はいつもそんな完璧な理想とそれに追いつかない失敗がつきまとう自分自身に『ダメ人間』という烙印をつけるようになっていた。今ではそんな時代もあったなぁと言えるようになったのが本当によかったのだが、小5くらいから15年くらい、酷い時は『自分はダメ人間だ。なんでこんなにダメ人間なんだろう』と、一日に頭の中で100回以上は軽くつぶやいていたと思う。変わるためにかなり努力を要したが何とかしてここは自分の努力で克服できた。


真剣と天然が共存しつつ繊細な自分というものは恐らく生来のものなのだが、幼少期にフタをして以降繊細さが増し、人から笑われること、叱られること、嫌な顔をされることですぐに傷ついてしまうので、傷つかないようにするにはどうしたらいいのか?と必死に考えた末、中学生になる際、天然モードを貫くか、真面目真剣モードを貫き続けるか、という2つの選択肢が自分の中に浮かんだ。とにかく人から理解されるには一貫性が大事と感じたからだ。

平和なほのぼのとした世界を作りたかったので、天然さを全面に出すようになった。しかし、真面目さや真剣さを消すことなど出来ず、表面的には楽観的に見えるけど、話してみると悩みしかないひとなんだねと言われるようになった。

あぁ、長くなった。細かすぎる。腕が疲れたので端折って結論を書く。

自分の内側に激しいギャップを抱えながら、人からのリアクションに傷つくことが多かった私は、人から理解される以前に自分で自分を理解していくことが困難だった。自分ほど難解な人間は自分以外に見ないと本気で困っていた時期があった。だから自分の資質を知りたくて西洋占星術を学んだり、ヒューマンデザインやキネシオロジーなども独学で少し学んだりしてみた。しかし、結果的に、自分で自分を理解することに対しては頭が使えないタイプなのだと分かり、いい加減に観念して、自分ではどう頑張ってもコントロールしきれない素の両極面の自分を誤解を恐れながらも震えながらも出すようにしてきた。人前で悔しくて泣くことも増えた。感情がどんどん生き生きと活力を増してきた。恥ずかしい。穴に入りたい。そう思うような経験をたくさんたくさんするほど、何故か世界が少しずつ優しくなっていった。

私には、正直自分で自分のことを客観的に見ることのできる力はあまりない。客観的に見ようと一時期ノートを書いたりしてとてつもなく頑張ったが、どうしてもネガティブな感情やジャッジをしてしまい、1人では論理的に考えることも出来なかった。悔しくて苦しくて動けなくなることもあった。でも、あるタイミングで、その方法は私には向いていないのかも知れないと思った。だから、今こうしてどんなこともなりふり構わず書いている。

いつか、自分の内側と外側が一致して、もっともっとありのままの自分で自分を認められるようになった時、このプレイアブルに書き綴っている事がとてつもなく恥ずかしく、見返す度に顔から火が出るような思いになるかも知れない。記事を全部消したくなるかもしれないし、実際にいつか何かの拍子に消してしまう選択を未来の私がしてしまうかも知れない。でも、積み重ねてきた書いてきたという時間は必ず私の中に刻まれ、人の目に触れることはなくなっても、自分の中には残り続ける。そして、今は二度と戻って来ないし、自分の命は自分で使うという意識を持つことが何よりも大事だから、私はちゃんと自分の選択で人の役に立つという選択を、自己犠牲でもなく情に流されるでもなく、確固たる自己に基づいて選び取っていきたいと考えているから、だから今はまとまらなくても、時間がかかっても、人に読んで貰おうとは決して思わずに、自分で自分のために書き綴っていきたいと決めている。

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