対話型AIと大学教育について

最近対話型AIと言われるChatGPTの話題がSNS場を賑わせている。

ChatGPTに自分が知りたいことを入力するとそれに対する回答を教えてくれる。使ってみるとなかなか面白く、時間を忘れるほどのめりこむ要素を持っている。

先日、新聞で「対話型AI 論文作成利用禁止/授業取入れを検討」など大学教育の場での取り扱いが話題になっていた。

ChatGPTは与えられた問いかけについて、データベース上にある膨大な情報からそれなりのしかし優れた回答を返してくれる。中には間違った回答を返す場合もあるようで、その辺の注意は必要ではあるが、使いようによっては効率的な未来が予想される優れたツールだと感じる。

さて、先の大学の件であるが、「利用禁止」と「取り入れ検討」は二律背反ではなく、両方やるべきではないだろうかと思う。大学は教育の場である。教育とは自分の能力向上を目的として、リベラルアーツ(一般教養)から専門的な知識を習得し自らが考えて行動する力をつける機会だと考えている。そういう意味からは、質問するだけで回答を返してくれるChatGPTのようなツールは学びに悪影響しかないという理屈は理解できる。しかし開発された便利なツールをそれこそ魔女狩りのように扱うのも文明の進化にあがなうようで納得できない。

もちろん論文のように自分の考えや主張を書く必要があるモノを、ChatGPTを使って代筆させるというのは、そもそもChatGPTでなくても言語道断であろう。だから大学が論文作成利用禁止を明確化するという事は極めて妥当だと思う。しかし使うこと自体を禁止するのは行き過ぎだと感じる。「羹に懲りて膾を吹く」以前の「疑心暗鬼」ではあるが、まずは大学教育としてChatGPTをはじめとした対話型AIについて学ぶことが大切だと考える。

「敵を知り己を知れば百戦して危うからず」

ChatGPTは敵ではないが、その活用方法を知り、自分たちの学びに活かせれば最大の効果が得られるのではないだろうか。
これからの大学が、人間がこれまで積み重ねてきた知識をどのように活用し、これからの技術や社会の進化にどのように寄与していくかが問われている時代だと感じている。是非様々な視点からの議論と教育を期待する。

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