暗黙知を形式知化するプロセスの変化

野中先生が提案したSECIモデルでよく知られている暗黙知と形式知。

暗黙知は「個人の中で伝えにくい状態で存在している経験的実践的なもの」で、形式知は「組織内の誰でもがそれを読んだり見たり聞いたりできる状態にしたもの」と言える。

形式知は、これまでレポートや論文にまとめられる事が多かった。文字おこしするためには自分の中にある「言葉にしにくい知識」を客観視する必要があるわけで、そこでは「改めて自分のその知識を精査する行動と思考実験」が行われるのが利点であろう。

一方で、客観視できなかった情報も当然あるわけで、それらは文字情報から零れ落ちてしまう可能性があるし、それを良しとしなければ長い時間をかけて文章化していかなければならないというのが欠点になろう。

そのそも「なぜ形式知化するのか?」を考えたときに、組織能力の向上があろう。つまりあるテーマに関する遂行能力を個人レベルから組織レベルにあげるという事である。優れた個人しかできなかった(暗黙的)知識を組織のメンバーに伝えるためには、形式知として何らかの見える情報に落とし込む必要があるのだ。

しかし伝える手段は文字情報だけであろうか?

今では、動画もその手段の一つだと思う。それはYouTubeをはじめとした多くのSNS世界を見れば一目瞭然である。テキストと動画はどちらが優れているかという問題ではなく、どちらでも可能な時代になった事を実感する。

もちろん、動画でも見せられる限界があるわけで、それは端的な言葉で何回も伝えるという事も大事になるのではなかろうか? 

Twitterなどで頻繁にキーワードや短文を発信する。それらをシャワーのように眺めることでもその行間にある「深い暗黙知」を発見することにつながるのではないかと感じる。

そういう点からいうと、公開的なSNSではなく、昔グループウエアと呼ばれたころの掲示板は、これからの時代の暗黙知を形式知化する効果的なツールなのかもしれないと思う。

唯一の欠点は、暗黙知所有者が自分の暗黙知を形式知化する過程で生まれていた新たな形式知の発生機会が減少する事だろうか。しかし逆に言えば、そこにメンバーとの対話で生じる新しい形式知の可能性が広がる可能性はある。

リアルに対話するだけでなく、バーチャル空間、例えばFBの非公開グループやSlackでログを残しながらの対話は、従来は暗黙知所有者だけに求められた形式知化のプロセスが、そのテーマを共有する様々なメンバーによるセレンディピティ―な形式知を生み出す可能性を秘めているとも感じている。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?