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ヘドロなりに考えた その1

 ヘドロ生活をしていてもものを考えることはできるわけで、きょうはヘドロなりに考えたことを書いてみようと思う。聡太くんの画像もあるのでそこだけ見ていただいても大丈夫である。

 猫は当然のことながら働かない。寝ているか遊んでいるか食べているかのいずれかである。働くとしてもせいぜいネズミを退治するとかそんなもんだろう。しかしいまネズミ退治目的で飼われる猫なんて、スコットランドのウイスキー工場くらいにしかいないのではあるまいか。

ネズミ? 興味ないね。


 聖書は言う、「野の百合、空の鳥」と。百合の花はなにを着るか悩まなくても美しい。空の鳥は種まきも刈り入れもしないのに元気に生きている。
 それくらい暮らしを神様に委ねよ、というのがこの言葉の正確な意味だ。着るものや食べるものに悩むな。つまり神様が養ってくださるのだから金がないと騒ぐな、ということだ。

 そういうわけでこの言葉は長年無職をやっているわたしにブッ刺さる言葉なのだが、人間は働かねば食べていけない。いまわたしは障害年金をもらって家にある程度お金を入れたり欲しいものをある程度買えたりしているわけだが、しかしそれでもらえるお金は二十代前半のころほんのいっときアルバイトをした時とあまり変わらない。
 ふつうの同世代を思うと、キャリアも積まず大きな貯金もせず結婚もせず、ただ無為に時間を使ってしまった、と思ってしまう。

 最近ときどき考えることがある。
 人間には、飼い猫のように、働くことにそもそも向いていない人種が少なからずいるのではないだろうか、と。
 働くことだけでなく、学校に行くこと、家の外の社会に馴染むこと、そういうことに向かない人種が一定数いるのではないだろうか、ということを、ここのところずっと考えている。

働かぬ。


 これは人生からドロップアウトした人間の意見だ。信じなくても構わないしなんじゃこりゃと怒る人がいてもおかしくないと思う。
 でも、いままでの「ふつうの人生」を生きていくのに向いていない人間は、まちがいなくいると思うのだ。

 そもそも、「大学を出て、働いて、結婚して家庭を持って、子供を育てて、その子供が育つころリタイアして貯金でのんびり暮らす」、ということが、現代日本においては非常に難しいことなのではなかろうか、と思うのである。
 大学に入るために奨学金を借り、労働はそれを返済することに費やし、満足に家族を養える収入はなく、仮に家族を養えたとしても子供を大学に入れるためのお金がなくてまた奨学金を借り……の連鎖が無限に続くなら、結婚して子供を持つなんて考えられないし、それなら結婚しなくていいし、結婚しなくていいなら恋愛する必要はないし、それなら自由に使えるお金はソシャゲのガチャで推しを引くために使うのが有効な使い道になってしまう。
 Facebookを見ていると、結婚した友達はおおむね美人の女子かいいところに勤めている男子か、の二択だ。わたしの両親の世代のような、ふつうのお父さんとふつうのお母さん、という家庭は減っているのだと思う。リッチなお父さんと美人のお母さんからしか子供が生まれないなら、この国が衰退していくのは目に見えている。

 結婚についてはルッキズムの問題とか言いたいことはいろいろあるのだが、「そもそも働くことに向かない人間」に話を戻す。
 たぶん、働いたり学校に通ったり、という社会活動に向かない人間というのは、世の中の仕組みが根本的に違えば、うまくやっていけるのだと思う。ただしそれは福祉が、とかそういうことじゃなくて、狩猟採集の世の中だとか、戦国時代みたいな世の中だとか、そういうレベルでの話だろう。
 そして、社会的活動に向かない人間の全てが、何らかの素晴らしい才能を持っているか、ということになると、それはNOなのだと思う。わたしなんか何年も小説を新人賞に投げ続けているが、一次選考二次選考をカスることはあっても賞をもらうなんてことは考えられない。これだけ社会に向かない人間なのに、である。

 おそらく、社会の仕組みは、「リッチなお父さんと美人のお母さん、及びその子供」に有利なように動いていて、誰も見ていないところで石ころの裏の虫のようにひっそりと生きている社会に向かない人間はどんどん増えるのにどんどん生きづらくなっていくのだと思う。

 わたしは結婚することも子供をもつこともないだろう。聡太くんが幸せになることだけを目標に文章のマネタイズを目指すのだろう。
 それはこの日本という国でだれもが想像するふつうの人生とは明らかにずれているが、しかしそうしなければ生きていけなくなる。
 猫のように、自分の楽しいことだけをして生きていく人生が当たり前になることがいいことだとは思わない。それだとこの世の中は機能不全を起こすだろう。

人間て大変だね。


 甘えた意見だと自分でも思う。「自分働きたくないんでその代わりの労働オネシャスw」と言っているわけだから。
 好き好んで労働する人種がどこにいるかは知らないが、その「好きな、楽しい仕事」にばっちりハマらない限り、わたしのような働くこと、社会に馴染むことに向かない人間が労働し、人並みの収入を得ることは難しいのだと思う。
 でも、おそらく「リッチなお父さんと美人のお母さん、及びその子供」が優遇される社会であるかぎり、それになれない石ころの裏の虫みたいな人間は増え続ける。結婚は特権階級のものとなり、恋愛もルックスのいい人間だけのものになって、どんどん国は貧しくなっていくだろう。

 猫のように、楽しいことだけをして生きていくのはズルいことだと、いまこの国の大半の人は思っている。
 でも、楽しいことでないとできない人がいることは確かだ。ツイッターでも素晴らしい才能があるのに社会に馴染めないせいで苦しい思いをしている人をときどき見かける。

 その、社会に馴染めない人間を、スポーツや音楽を通して社会に馴染めるようにしよう、みたいな取り組みをテレビで時折観る。
 馬鹿にしてんのか、と思う。
 そんな、太鼓をドンドコ鳴らして同じ病気の仲間と親しくすることで社会に戻れるなら、この世にドロップアウトした人間なんていなくなる。そんな、社会に馴染める側の考えた無理矢理なやり方で社会性を取り戻せるなら、それはありとあらゆる精神医学の否定である。

 いまの世の中は、昔だったら生き延びられない人間が生きていけるようになっている。「昔はアレルギーの子供なんかいなかった」というのは、昔はアレルギーというものが分からなくてそもそも治療できず生きていけなかったからである。
 だれでも肉体的に成長できる社会にはなった。それでも、生きていくのにつらさを感じる人間はたくさんいる。社会に馴染めない人間がいるということは、やはりこの社会が目指す「だれも取り残さない」というのがいまのところ理想でしかない、ということだ。

理想だけじゃなんにもならんよ。


 この間、母氏が家の片付けをしていたら、わたしが中学生のときの学力調査の結果がでてきた。マークシートで解答して結果が表になって出てくるあれだ。
 中学生のわたしは、100点をとった項目がいくつかある、とてもよい成績をおさめていた。そんな人間が、なぜいまヘドロ人間をやっているのか。病気を拾ってしまったからか。高校を休学して留年して中退したからか。アルバイト先の会社が助成金ありきだったからか。新人賞を獲れないからか。
 なにが理由なのかは正直分からない。でも、社会に適応できないから、というのが大雑把な結論なんだと思う。

 猫のように自由に生きることは、現代社会では不可能なんだと思う。
 でも、猫のように自由に生きられたら、幸せだろうな、と思う。やりたいことをして楽しく過ごして、それで食べていけたら、いま大量に薬を飲んでいる病気だって折り合いをつけることができるだろうし、悩む必要もなくなる。
 せめて、石ころの裏側の虫でなく、猫になりたい。

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