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子どもが苦しむ始まりは、今思うともっと前だった

不登校のママのコミュニティ
sotto and playfulnessを運営しているKeicoです。

まだトンネルの中から出ていない親子ですが
だからこそ見える世界があって
遠回りしたからこそ、伝えられることを
綴っています

実際、不登校になったのは中学1年生
でも本当はもっと前からだと私は知っていたのかも


娘が小学3年生の頃、半月ほどだけ学校に行けない時がありました
それは、私の乳がんが見つかった時でした
大きな手術が必要な状態でした

当時はまだ育てにくい子だと思っていて
HSCだとは思っていなかった
でも勘が働く子で、すぐに私の病気に気づき
クラスの教室に「音が嫌だ」と言って、入れなくなりました
頭痛がして、「痛い、痛い、助けて」と泣いては
学校に行くのを嫌がりました

こっちは病気を治すことに必死なのに
なぜ手をかけるの?
なぜ私を困らせるの?
なぜ自分のことを自分でしてくれないの?

そんな思いを娘にぶつけていました
小さな娘は、私が死ぬかもしれないという恐怖と戦っていたのに


娘にしてあげたつもりでいたけど、勘違いだった

当時、私には幼稚園と小学3年生の娘がいました
彼女たちに今までと同じ生活を続けさせたいという思いがあり
必死にそのままの生活を守ろうとしていました
そのままというのは、塾や、習い事のことです
そんなのその時、必要でないって今考えたらわかるのに

周りの子から遅れを取らせるのが私が嫌だったんです

彼女の心に寄り添ってあげようとしていなかった

彼女が続けていたピアノのコンクールがあり
本人は出たくなかったと思います
でも、それを続けさせるために
私は手術日を調整し
全国大会までには手術を終えて戻ってきました
美談のようにママ友に語っていたように思います
バカです

入院中も病院からピアノの練習を指示して
何度も弾かせていました
本当にバカです

今考えると、本当に馬鹿げている

親が死んでしまうかもしれないという恐怖と
戦っている娘の気持ちに寄り添っていなかった

子どもは親の期待に応えようとする


でも、彼女はでもやり遂げたのです
ピアノのコンクールでもそこそこの成績を残しました

一度もやりたいと言っていなかったのに

私は彼女のために、やったと思っていたけど
コンクールに出してあげたいと思っていた
でも、実際は
彼女は私のために、したくもないピアノをしていたように思います
小さな心を苦しめながら、していたのです

そこから勘違いした私は
彼女をピアノ生活に追いやっていくのです・・・・

いつから知っていたのだろう・・・

今思い出せないけど、いつの頃か
この子にとって、ピアノの人生は違うんじゃないかと
私自身が感じていたよに思います
でも、そこそこの成績を残す彼女を私が諦めきれなかった
その思いに応えようとしてくれていたのも知っていた

なのに知らないふりをして、無理をさせていたように思う

全てを放棄した今、
彼女に願うのは
自分がやりたいと
自分から湧き出る思いで
人生を楽しんでほしい
そう思っています

現在から振り返って


あの時から、5年時が流れました
彼女はその2年後、少しの間不登校
そして、その4年後、完全不登校となりました
今少しずつ動こうとしています

まだトンネルの中にいます
でも少し光が見えてきています

遠回りを忘れないように
少しずつ、綴っていきます

お読みいただきありがとうございます。
私の遠回りの道が、誰かの役に立てば嬉しいです


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