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東ドイツと、アラブ世界との関係

「ドイツ」の歴史が語られる時、無視されてしまいがちな「東ドイツ(DDRドイツ民主共和国)の歴史。「なぜ東独はアラブ世界にすぐ武器を送ったのか?」という中部ドイツ放送MDRの記事から考える。


ドイツ現代史研究の取り返しのつかない過ち――パレスチナ問題軽視の背景京都大学人文科学研究所准教授・藤原辰史さんの記事をざっと拝読し、思ったことを書く。
私はドイツ現代史研究者ではないし、ドイツでも日本でもその研究者達のシーンについては門外漢なので、2000年からベルリンに生きてきて、見聞きした"ドイツの市民"の感じしかわからない。
その上でたしかに「(私たちは)人種差別を戦ってきた」とドイツの人たちが考えるときに頭に浮かぶ「人種差別」=ナチスの所業(で反ユダヤ)だというのはそうだと思う。
アジア人差別を指摘すると「私はナチじゃない」とか言い返されて、いやそうじゃなくて、、と頭を抱えることになるのはそれが理由だ。その話は以下のVOGUEの記事でも取り上げた(後半、法学者カネザ氏の話)

人種差別=ナチスという古い図式、強いタブー視が、人種差別を直視する枷となっており、対話を阻み、思考停止につながり、また差別とはユダヤ人差別であるというざっくりした認識が、いまパレスチナの差別に繋がってしまっている部分は、ドイツの市民の中にも存在すると思う。

ただこの記事の中で東ドイツとのつながりという視点や米ソの対立、冷戦の歴史が欠けているのは個人的にとても引っかかった。
1965年に西がイスラエルと国交樹立した際、西との国交を断絶したアラブ諸国が東ドイツ側を向いたのだ。「ドイツ」が語られる時(ドイツ人も含めて)東がサラッと無視されるけど、東ドイツからの視点なしにいまのドイツ(全体)の社会の空気を含めて掴みにくい部分もあると思うからだ。

以下は、MDRが昨年10月にすぐ上げた記事「なぜ東独はアラブ世界にすぐ武器を送ったのか?」である。

記事をざっと訳してみる。
1967年第3次中東戦争/六日間戦争が勃発するとすぐ、ウルブリヒト評議会議長は東独はイスラエルに敵対する旨を発表。ソ連や多くの東欧諸国はイスラエルとの関係を断つ。1969年にはイラクが東ドイツを国として外交的に承認。エジプト、シリア、イエメンも続く。

※筆者注:ハルシュタイン原則Hallstein-Doktrinにより「西ドイツ(ドイツ連邦共和国)だけが、ドイツ地域で唯一民主的に選ばれた正当性を持つ国家」とし、ソ連以外の国で東ドイツを国家承認した国とは国交を断絶する、ということがあったが、ここでは逆のことが起きた。国際的にも国として承認され国交を行いたい東ドイツはアラブ外交に力を入れていく。

アラファトは1971年に東独を公式訪問し、外交支援と武器と経済援助の合意をし、東ドイツはパレスチナに武器を送る。

そして、1972年のミュンヘンオリンピック。イスラエル代表に対するテロ事件が起こる。代表11名と警官1名が亡くなったテロ。犯人はPLOの分派であるパレスチナ人過激派「黒い九月」のメンバーだった。それでも、東ドイツの姿勢は変わらなかったという。そして1973年提携協定の調印。その数週間後に、アラファトやアラブ諸国の後押しにより、東ドイツは国連の加盟国になり国際的に国家承認されることになったのだ。PLOとの協力関係は1990年まで続いた。

1989年、ベルリンの壁崩壊。そして1990年の統一までの道のりの間で大きな転換期を迎えることになる。(引用終わり)

東ドイツはこれまで、自分たちの国はナチスと戦った人たちが作った民主主義国家だから、ナチスの後継者だとはみなしていなかった(だから歴史教育なども西ドイツとはズレがあるとは感じるし、これは後に、旧東ドイツ側を中心に人種差別事件が勃発した時や、AfDの台頭が(最初は)旧東ドイツ側がすごかった時に問題視された点でもある。西ドイツの非ナチ化もうまく行ってたとは思えないけど、東ドイツでの対応に関しても、個人的に色々思うところはある)
そして「ナチスの後継者じゃない」から、ユダヤの人たちに対して(だけの)補償制度などはなかったそうだ。ただし「ナチスに迫害された人々」という組織は存在した。ただしこれは迫害されていた人たち全てが対象となり、戦ったのか、ただ迫害されたのかでも待遇には違いがあったそう・・という話は以下のインタビューで聞いている→

引用再開>
1990年4月12日、東ドイツの人民議会は「世界中のユダヤ人に対し、イスラエル国家に対するドイツ民主共和国(東ドイツ)の偽善的な言動と敵意を許してほしい」と乞う。1990年10月の再統一でアラブ諸国との同盟関係は終わり国連の二重加盟も解消されることとなった。


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