曦宗達日記(2020年9・10・11月)

二〇二一年九月二十日

消えてしまっていた日記が見つかったので、また書き続けようかと。

研究を発表するにあたって何時間も批判されることはそうそう無いと思うが、やはり代償がデカくてストレスが溜まりに溜まったり引きずる。
研究者はフォーラムよりも少ないのか多いのか、全くをもってわからないが別ベクトルで大変なんじゃないか?って思う。

理論化は本当に疲れる。意外と疲れる。そして私は気づいた。感性と感情で生きる非理論家なんだなと。
意外とちっぽけな存在であるがために院行くのを断念したがそれはそれで正解だとも思うし小説に専念できそうな気がした。

ゼミや研究が嫌になって絶望をするものの自殺はしたくない。
なんと人間はこうも中途半端なのだろうか。


二〇二一年一〇月一日

小説家になりたい

子供は皆苦労する。大人も最初は子供レベル。みんないがみあうような関係になる。それを踏まえて大人になる。これに労力は相当かかる。これは家族にだけのものでない。会社員も若手は子供。俳優も作家もなったばかりは子供。

だから私は文学者としての子供から大人を過ごすことに覚悟を決めた。

考えずに無意識のうちにサボってしまい疲れる。意識して課題に取り組んでも疲れる。どっちにしろ疲れる。
これも悲観


別のことをするとき、小説(家)になることをやめちまえって思っとけ。


二〇二一年一〇月一〇日

研究の一環として創作をするのか・・・それとも創作と研究は違うのか・・・。


もともと詩人という哲学者になりたくて文芸の道に入ったのだが、そこまで本気で無かったことに気付いてしまった。
どん底を味わっている。

研究者か独自の研究家になろうとも思っていた。もしかしてそっちの方が合っているのか?


とにかく自己を徹底的に見る仏道、仏教で禅僧は詩人なのだろうか。


結局私のメンタルは弱い方だから信頼できるもの、依拠できるものに寄り添う形で安心感を得て時に対象を変えながらこれを繰り返さないと死んでしまうだろうな。

私は答えなき、幻想とも言える幻惑とも言えるものに悩むという病をもっている。

卒研でアイデアや構想浮かばないとどーしてた?
→本、論文読んでインプットしてた!
→脚本や小説書くのも同じ。ワシの脳みそだけでは限界。

短歌やめるか

→わからない。本当にわからない。辛いけど、かといって全く作らないと言うわけでもない。

二〇二一年一一月九日

本来の苦しさというのは決して自分自身を破壊したいという行為ではなく自分自身の潜在における狂気的なまでの思考回路の整理になるのか。

不安なのだ。短歌を作らないと。↑なぜ短歌にこだわるのか

自殺・事故死・殺害はやはり避けたい。(じゃあどうやって早死にする?)

幽玄は作ろうとしてなるものなのか?

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