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言葉を「発する」とはどういうことか オースティンの言語行為論 

言語哲学を学ぼうと思いたったのが18歳、それから幾星霜、気がつけば28歳である。やりたいことがあったら今すぐやれ、なにもかも投げ捨てて、今すぐに始めるのだ。そのように、若い自分に言い聞かせたいものだ。このnoteは、言語哲学の門前で、いつまでも地団駄を踏んでいる小僧の能書である。

門で思い出したのだが、カフカの有名な小編に「掟の門」という禅問答のような物語がある。なぜか門を通してくれない門番の前で何十年と地団駄を踏んだ旅人が、衰弱し切って死に際を迎えたころ門番にこう言われるのだ。

ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。おれはもう行く、だからこれを閉めるぞ

https://www.alz.jp/221b/aozora/vor_dem_gesetz.html

僕はこの話がけっこう好きである。掟を超えられない旅人も、掟の門を閉ざす門番も、掟自体も結局は自分自身である。越えよその門を、というのが僕がこの話から得た教訓である。


1. 初期オースティンの言語行為論:事実確認的/行為遂行的発話

ジョン・オースティンという哲学者がいる。彼は『言語と行為』という極めて晦渋な哲学書を記しているのだが、この本は哲学書には珍しいことではないのだが、読んでもほとんど意味がわからない。ほとんどの部分が、難渋な英語の文を列挙をしたあと、それに対してあぁでもないこうでもないとオースティンが後から解釈を加えるという体裁で記述されているが、なんとも曖昧で意味が捉えづらい文体で記載されており、通読するのが一苦労である。

しかし、オースティンの業績は、今日の僕たちの言語の捉え方に極めて大きな影響を及ぼしている。端的に言えば、それまでの言語哲学が言語を「静的」なものとして解析しようとしたのに対して、オースティンは言語の「動的」な性質に着目したのである。

フレーゲやラッセルといった20世紀初めの言語哲学の大家たちは、論理学の知見を導入しながら世界を正確に記述する厳格な記述方法を模索した(彼らの業績はまた別のnoteでまとめようと思う)。それに対してオースティンは、日常的な言語がどのように使用されるのか、そして言語が使用されることで世界にどのような影響を及ぼしているのかに注目する。言語は多くの場合「発話」を通じて使用されるので、オースティンの研究は「発話」を分解し論理的に考察するものが大部分を占める。

それでは、稀代の哲学者ジョン・オースティンは一体なにを言っていたのか。大仰な導入をしてしまったが、実は言っていることは極めて単純である。

まず、オースティンは発話という行為は、事実確認的発話 constativeと行為遂行的発話 performativeの2つに分類することができると考えた。事実確認的発話とは、「これはペンです」とか「僕は東京生まれです」といった事実を述べる行為である。英語の授業で最初の方に習う平叙文は、概してこのような事実確認的発話に属する。これに対して、行為遂行的発話とは、「あなたに今日から仙台勤務を命じます」とか「中華人民共和国を建国します」のような、その発話によってなんらかの影響を聞き手に及ぼさんとする行為である。「あなたに今日から仙台勤務を命じます」という発話は、それが行われることによって聞き手が実際に今日から仙台で勤務を始めることが企図されている。これが、「これはペンです」のように、単に事実をなぞるだけの事実確認的発話と異なる点である。

行為遂行的発話の具体的な例としては、「宣言」「命令」「謝罪」「任命」などがあげられる。これらはどれもが、発話自体がその行為の一部を為し、世界への影響を与えようとするものだ。適切な発話者と聞き手の関係が前提となるが、宣言したことは大体事実として見做されるし、命令したことは誰かに実行される。

この見立ての優れた点は、言語を行為という「動的」な次元で捉えられるようになることである。オースティンの哲学において、言語は世界を正確に記述するための「静的」なツールではなく、実際に世界に影響を及ぼす「動的」な行為なのである。そしてこの前提に立てば、行為はどんな条件で成立するのか?影響はどのように分類できるのか?動詞や文の種類によってその影響はどのように変化するのか?といった「動的」な効果に対する思考を深めることができるのだ。

これがどれだけすごいパラダイムシフトだったかと言うことを説明するには、西洋哲学が言語をどのように捉えてきたのかを理解する必要がある。

古代ギリシャの天才プラトン以降の西洋哲学は、基本的には真理を正確に記述する言語のあり方や、論理的な言葉の仕組みとは何かを模索してきた。このような試みの極北にヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』という究極の奇書が存在する。対してオースティンは、真理がどうとか論理がどうとかいった伝統的なイシューにさして注目せず、むしろ僕たちが「日常的に」使っている言語が社会生活を成り立たせるツールとして機能している理由を考えようとし、発話行為に注目するに至ったのである。


2. 後期オースティンの言語行為論:発話行為/発話内行為/発話媒介行為

ところで、これを読んでいる皆さんは、たった今説明したオースティンの事実確認的/行為遂行的という発話行為の分類に納得してくれるだろうか?実は、僕にはあまり納得できないところがある。というのは、果たして「事実確認的発話」などと言うものが存在するのだろうか?と疑ってしまうからである。

例えば、「これはペンです」という事実確認的発話の例をもう一度見てみよう。発話者は今、聞き手に対して、視界に存在する物体がペンであることを説明しようとしていると想像できる。これはペンです、という文は確かに事実確認的な響きを持っている。だが、例えばこの発話が「ペンを齧っている赤子に対して使用人が慌てて呼びかけている」という状況下で行われているとしたら、どうだろうか。使用人は事実確認的に「これがペンである」と伝えていると考えることもできるが、寧ろ着目するべきなのは「これはペンであって食べ物ではない。だから食べてはいけない」という「禁止」や「静止」という発話者の意図にあるのではないか。だとしたら、「これはペンです」という使用人の発話はむしろ、世界に対してなんらかの影響を与えようとする行為遂行的な発話とみなすべきなのではないか、と僕は思う。

そもそもあらゆる言語は、発話という行為を通じて世界に放たれている段階で、すでに世界に対して影響を及ぼそうという企図があるのではないか。「僕は、エヴァンゲリオン初号機パイロット碇シンジです」という名シーンは、決して碇シンジが自らの属性に係る事実を確認しているわけではなく、「だからエヴァンゲリオン初号機に乗せてくれ」と碇ゲンドウに「許可」を求める行為遂行的な発話であると捉えるべきではないか。「東京は日本の首都です」といった平叙文ですら、それを発話の具体的な状況と照らし合わせた時に、純粋に事実確認的な側面しか持っていないと考えるのは難しいのではないか。

と、ここまで偉そうにオースティンに異議を申し立ててきたように見えるが、実は今述べたことは僕のオリジナルではなく、オースティン自身が『言語と行為』の中で述べていることである。後期オースティンはあらゆる言語行為を「発話行為」「発話内行為」「発話媒介行為」という3つの位相で捉えることを提唱している。発話行為とは、何か意味のある文を発すること、発話内行為とは発話を通じてある行為を遂行すること、発話媒介行為とは発話に影響されて実際に世界になんらかの行為が現れること、である。

この道具立てを使って分析を行うことで、あらゆる言語行為の行為遂行的な性質を分析することができる。オースティンの考えによれば、言語は、どのような状況で、なにを企図して、誰に対して、どんな調子で発されたのかなどの複合的な条件によって、その「行為の次元」が紐解かれるべきなのである。


3. カムアウトをめぐる小話

では、オースティンが言ったことから僕たちはなにを学ぶべきなのだろうか。書き始めるにあたって参考文献でも探そうかとネットの海を彷徨っていたら、自分が学生の時に書いたnoteを掘り当ててしまった。そこに書きたい内容がほとんど書いてあったので、これからそれを少し修正してお届けする。まずは僕の学生時代の小話からである。

大学2年の冬学期。僕はキャンパスで社会学の授業を受けていた。教官は、今は退官してしまった山本泰というやたらほっそりしたオジサンで、地域社会学を専攻していると言っていた。

その日の授業教材は、ハーヴェー・ミルクというアメリカの政治家の一生を辿るドキュメンタリーだった。この人は日本ではそこまで知名度が高くはないが、アメリカで初めて公職についたオープン・セクシュアルマイノリティの一人であり、LGBTQの権利運動における重要人物の一人である。

https://www.amazon.co.jp/ハーヴェイ・ミルク-字幕版/dp/B016B0QTM0

ドキュメンタリー自体は、セクシュアルマイノリティに対する風当たりが強かった20世紀中盤のアメリカにおいて、ミルクが様々な多様性を統合しながら選挙運動へのモメンタムを創っていく様子が描かれていた。当選後も性的少数派の権利向上に向けた活動を進めるが、ある日ミルクは突然同僚の議員に射殺されてしまう。びっくりである。彼の死は市内で盛大に悼まれたのだが、ドキュメンタリーの中でその追悼集会を回想して、選挙運動のスタッフがこんなことを言っていた。ミルクが死んだ後、周りの人たちが次々とカムアウトし始めた。それまで暗がりに身を潜めるように生きていた人々が、自分で声を上げることで少しでも社会を変えようとし始めたのだ。ミルクは社会を変えたのだ、と。

ドキュメンタリーの視聴後、山本泰の問いかけはこのようなものだった
「友人からカムアウトを受けたら、あなたはどうするべきなのか」

彼はその問いを投げかけた後に、ある逸話を披露してくれた。昔の教え子に、在日朝鮮人の女の子がいたという。彼女は自分の民族的な出自について強いコンプレックスを抱えていて、長い間周囲の人間に自分が在日朝鮮人であると打ち明けることができなかった。

しかし、自分も周囲も精神的に成熟するにつれて、自分の苦しみや葛藤を共有できる友人がいるのではないか、と希望を抱くようになった。ある日、自分が本当に信用できると感じた幼なじみの一人に、意を決して自分が在日朝鮮人であること、そのことが自分にとって強いコンプレックスであることを打ち明けた。友人はこう答えた。「そんなの関係ないじゃん、僕は気にしないよ」その返答を聞いて、彼女は絶望し、自殺を決意したというものだ。

4. ポジショナリティ:発話の位置を問う

さて、この発言、なにがいけなかったのだろうか?友人は悪意を持って彼女を追い詰めようとしたのだろうか。おそらく否である。彼女のアイデンティティを否定するような発言だっただろうか。おそらくそう感じる人は多くないだろう。では一体何を問題にするべきなのか。みなさんも少し考えてみてほしい。

僕の考えはこうである。問われるべきなのは、「そんなの関係ない」かを決めるべきなのが一体誰なのかという問題だ。もう少し具体的に言えば、「あなたに他人にとって何かが重要であるかを決める権利があるのか」という問いだ。「いや、あなたがそう思うかどうかに関係なく、僕にとっては重要な問題なのだ」と否定すれば良いではないか、と思う向きもあるかもしれない。でもそれが実際に可能なコミュニケーションなのかどうかは、その発話がなされる状況に照らして厳密に検証される必要がある。

ここでオースティンに帰ってきてもらおう。オースティンは言語行為を発話行為/発話内行為/発話媒介行為の3つの位相で捉えたことは、先に述べたとおりである。この中でも、発話内行為とは、発話を通じてある行為を遂行することであった。では、「そんなの関係ないじゃん、僕は気にしないよ」という発言はどのような発話内行為を行っているのだろうか。僕の考えでは、この発言の最も重要なメッセージは、相手の提起した問題を無効化し矮小化しようとする意図の表明である。相手が感じている問題が、自分にとって取るに足らないものであると表明し、その問題の重要性を極端に矮小化しようとするのがこの発話の遂行的な行為の様相なのではないか。

しかし、何度も言うように、普通ならそんなことは対話の中で「あなたがそう思うかどうかに関係なく、僕にとっては重要な問題なのだ」と反論すれば良いだけではないか、と思うだろう。ここで重要になるのが社会学におけるポジショナリティ=立場性と呼ばれる概念である。これはオースティン以降の言語哲学(と、正確に言えばサイードやスピヴァクといった第三世界の研究をしていた人間の貢献も大きい)が社会学に取り込まれることで生まれた概念で、発話の「位置関係」を問う分析概念である。

対話におけるポジショナリティを考える時、発話者と受け手の間には常に非対称性が生じている。在日朝鮮人の身で日本国籍保持者に対して、自身のアイデンティティをめぐる葛藤について語るという状況においては、日本国籍保持者の方が圧倒的な優位に存在しているということだ(在日朝鮮人を巡る研究は山ほどあるが、歴史的事実に関心がある方は外村大先生の著書を一読されることをお勧めする)。そして、発話者と受け手の間に権力的な非対称性がある場合、優位にある者が理解したと感じている内容、発話している内容が、遂行的に「現実」を作り出してしまう。このことが問題として問われるべきなのだ。

我々は無色透明に存在しているのではなく、あらゆる社会関係の結節として世界に存在している。「そんなの関係ないじゃん、私は気にしないよ」と言葉を投げかけた時、ポジショナリティの差異(位置の非対称性)がもたらすその言語行為の行為遂行的な性質(遂行性)によって、在日朝鮮人の彼女が抱えている葛藤は無効化され、取るに足らない事実にされてしまったのではないか。本当は彼女にとって切実な問題であっても、「そんなの関係ない」と優位にあるものが発話することで、遡及的にそのことを事実にしてしまう。それは拒絶と捉えられても仕方のない強い断絶を感じさせたはずであり、自殺を決意したという物語の結末にも僕は納得できる。

「日本国籍保持者が在日朝鮮人としての苦しみを否定した時、そこに在日朝鮮人としての苦しみは存在しなかったことになってしまう」という言語の遂行性とポジショナリティをめぐる問題について、読者の中にはいまいちピンとこない方もいるかもしれない。そこで、いろんな例を出しておく。たとえば、都市出身者から地方出身者に向けられる「出身なんて関係ない」、高学歴者から学歴弱者に向けられる「学歴なんて関係ない」、恋愛強者から恋愛弱者に向けられる「顔なんて関係ない」、富裕層から経済弱者に向けられる「金なんて関係ない」。これらはみなポジショナリティを背景に遂行的に問題を無化する言葉の数々である。誰かが苦しんでいることであっても、それがその問題における強者によって否定されれば、無かったことになってしまう。事実を遂行的に決める発話のポジショナリティは常に強者の側にあるからだ。なんとなく感覚として伝わるだろうか。

オースティンの言語行為論がもたらしたのは、このように発話を行為という次元で分析することによって、その行為の対象となる人と人との間にある非対称的な関係性を射程に入れて、言語の問題を捉えるための分析枠組みである。これに、付け加えて説明しておきたいのが、言語論的転回という社会科学上の概念である。言語論的転回とは、言語が世界の真なるあり方に対応する記号の集積であるという見方(世界が先にあって言語はそれに対応している)から、言語が人間の世界に対する認識のあり方を規定しているという見方(言語が先にあって世界を作り出している)へのパラダイムシフトを指す。言語論的転回を経た社会科学では、日常的な言語行為の集積が人間の社会に対する認知のあり方を規定しているという立場を取る。

僕たちの言語は、世界をどのように認識するかを規定する力を持っている。それは言語行為の遂行性を通じて、今この時も、僕たちの世界のあり方を変えたり、強化したり、崩そうとしたりしている。言葉の力とは、世界のあり方を決める力に他ならない。だからこそ、どの立場から、誰に、どのように言葉をかけるかということは、常に政治的な問題として問われなければならない。あなたは何者なのか、どの立場でそれを言っているのか、受け手に対して遂行的にもたらす効果とは何か。これらの全ては、厳格に問われねばならないのだ。


5. あなたはなんと答えねばならないのか

最後に、カムアウトの話に戻ってみよう。「友人からカムアウトを受けたら、あなたはどうするべきなのか」山本泰の答えはとても単純だった。

「それってつまり、あなたにとってはどういうことなの?」と問うべきだというのだ。

僕には、その問題があなたにとってどういう意味を持つのか知る術もないし、ましてやその問題の価値の大小を定める立場にもない。だからあなたの口から教えて欲しい。そのことは、あなたの人生に対して、どんな意味を持ってきたのか、どんな感情を与えてきたのか、そしてどのようにあなたがその問題に向き合ってきたのか。

僕たちは、社会に埋め込まれた存在である以上、権力性や他者との非対称性によって生じるポジショナリティから逃れることはできない。しかし、言語が遂行的に現実を規定することは暴力にもなりうるが、同時に相互理解の道をも開きうるのだ。言語が世界を作るのであれば、言語こそが世界を変える手段であるというべきだ。だからこそ、私は遂行的に言語を相互理解の方へ開こうと試み続ける。

あなたにとってどういうことかと問う、僕の知りたい、理解したいという欲望が、あなたの語りに影響を及ぼし、理解されやすい形にあなたの経験を削ぎ落として語らせてしまうかもしれない。それでも僕は、そのすれ違いの積み重ねには、理解を拓く道が続いていると信じている。カムアウトは、自分の存在をかけて、「わたし」の世界を書き換えようとする試みである。誰かが存在をかけて放った言葉に向かって自分を拓く方法を、僕は常に探している。


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