組織を作り動かしているのは人間の「限定合理性」である 組織の不条理①
菊澤研宗『組織の不条理』は、戦史研究を通じた組織論の名著として『失敗の本質』と双璧を成している。
菊澤は一貫して、人間はあらゆる情報について把握した上で最適なオプションを選択できるという「完全合理性」の幻想に対して批判的な立場をとる。
近代的な経済学はこのような完全合理的なホモエコノミクス(利潤の極大化を目指して行動する経済的人間)としての人間を想定して成立しているが、菊澤の依拠する新制度派経済学はこのような見立てを拒否し、人間はあくまでも限られた情報の中で自己利益を最大化するための機会主義的な行動をとるという「限定合理性」の立場をとる。
このような見方を取ることで、それまでは市場空間の中で均一な行動を取る”点”としてしか捉えられなかった企業の、内部における力関係のあり方=ダイナミクスを捉えることができるようになるためである。新制度派経済学に関する簡単な歴史的説明は、菊澤氏の研究会ページを参照されたい。
本書では、日本軍の戦史研究について①取引コスト理論、②プリンシパル=エージェント理論、③所有権理論の3つの分析概念が提示される。それぞれをごく簡単に紹介すると、このようになるだろうか
このような視座に立って考えた場合、日本軍は非合理的な作戦行動によって自滅したと考えるべきではなく、限定合理性にもとづき、自己利得を最大化する機会主義的な行動を合理的に選択していたと考える方が適切だというのが筆者の立場である。詳細は本書を参照されたいが、ここではガダルカナル戦を例に出す。
失敗の本質でも詳述された通り、ガダルカナルで日本軍は成功の見込みの極めて小さかった白兵戦に狂気的なこだわりを見せ、3日にわたって壊滅的な突進攻撃を行った結果何の成果も得られず大敗した。
鉄条網の向こう側で、戦車の砲弾やライフルの銃弾の雨嵐を浴び続け、それでも怒声を上げて銃剣を手に突進してくる日本兵の勇猛は、アメリカ兵に大量のPTSD患者を生じさせた以上の戦果は何も得られなかった。
生き残った日本兵はジャングルに逃れたが、日本陸軍は兵站を軽視していたため大半は餓死したかマラリアで足の先から腐っていった。息のあるものは、同胞の死骸を喰らって生き延びた。日本軍の被害は2万人を越え、兵力の6割近くを失った。
これまでの戦史批判では、主に日本陸軍の無謀な作戦遂行や白兵作戦へのこだわり、陸海軍の連携不足などが批判されてきた。特に白兵戦については最初の作戦実施の段階で近代化された米軍の武力の前に歩兵突撃では勝ち目がないと何度も現場の指揮官から進言を受けたにもかかわらず、これに固執した将校や大本営の対応こそ、非合理的で近代化できない日本型組織が抱える問題の最たる例だとされてきた。
菊澤はこのような見方を退け、白兵突撃を選択したのは限定合理性のある行動だったのだという。
ここでは重要な分析概念として、”歴史的経路依存性”が提示される。あらゆる制度や組織的な形態は、全て歴史的な経緯を持って存在している。日本陸軍は明治時代以降、白兵突撃を主たる攻撃手段として想定し、兵器の拡充や部隊編成を行ってきた。
教育も全て白兵突撃を念頭に置いて行われていた。白兵突撃を辞めるという決断はすなわち、これらを全てサンクコストとして浪費するということになる。この計算することもできない途方もない投資と歴史的背景を放棄してまで、白兵突撃から転換することは、取引コストの観点で最適だとは考えられなかったはずである。
現場を説得し、将校を説得し、大本営を説得するだけの取引コストを割くのであれば、ごくわずかでも成功する可能性のある白兵突撃を実施した方がマシに思えたのである。
実際のところ、本書の中で繰り返し登場するのはこの歴史的経路依存性に基づくサンクコストが、人間の限定合理性に強く影響を与えるということである。
無論、完全合理性の立場に立てばそもそもサンクコストについて考えること自体全く合理的ではない(その結果として積み上がっているものがもはや無意味なのであるから)。
だが、人間は限定合理的にしか振る舞うことができない以上、こうしたサンクコストの影響から逃れることはできないのである。このような見方は、現代的な組織運営の上でも必ず脳の片隅に入れておかなければならない。私たちは限定合理的であり、そこから出発する議論のみが有効だと菊澤は主張するのである。
あまり長くなるのも良くないので、本稿はここで閉じることにする。菊澤はもう一つの重要な指摘として、敗戦中の日本軍がある種の分権型組織に移行していたことを硫黄島戦や沖縄戦を元に論証している。これもまた、限定合理的な組織論を語る上で欠かせない観点となる。この点に関しては次回以降で言及する。
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