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ハラスメントを辞めるための"正しい"会話術

TL;DR

会話する相手との間に社会的な上下関係がある時に、断定的な言葉遣いをすることを辞めましょう。具体的には”AはB”という形式の総称文(女の子はスカートを履く、など)を使って自分の信念を押し付けるのをやめて、自分がどうしてどのような考えを持つに至ったのかを論理的に伝えましょう。

1. あなたに「ハラスメントをしたことがない」とは言わせない

1-1. 厚労省調査から見るハラスメントの現在地

厚労省はハラスメントに関する定点観測を2014年から4年スパンで実施しています。2022年度の調査では、セクハラのみ件数が減少していると答える人の割合が多くなりましたが、n=6408(従業員30以上の企業)の中で、およそ50%近くがハラスメントの過去3年で相談を受けたことがあると回答しています。(この割合は過去3回の調査で大きく変わっていません)

令和2年度”職場のハラスメントに関する実態調査”概要報告書より抜粋

規模の中小を問わず、ハラスメントを予防すること、また万が一発生した場合に加害者/被害者に対して適切な対応を行うことは、企業にとって非常に重要な責務になっています。

一方で、当該調査の半分近くの企業が過去3年でハラスメントの相談を受けたことがないと回答しているのに、違和感を覚える人も多いでしょう。実際、「ハラスメントなんて見たことない!」「自分の職場にハラスメントなんてない!」と、胸を張って言うことができる人はそう多くないはずです。どれだけのひとが、家族や友人などの大切な存在に対して、自分の働いている企業で勤めることを勧めることができるでしょうか。

1-2. ”1億総ハラスメント社会”の困難

さて、ハラスメントの難しいところは、あなたがいつでも加害者になりうるということです。

たとえば、人間は必ず年を取って、老います。日本社会は一般的に、場における”長幼の序”を重視するため、年齢を重ねることがそのままそのひとの権力性に繋がります。”老害”という言葉がネットカルチャーでブームになってから久しいですが、年を重ねたひとが時代の変化についていくことができず、現代的な価値観にそぐわないテイストの発言をして若者を当惑させる光景は、私たちにとってあまりにも日常的です。

私は1995年生まれで、少し前までは”ゆとり世代”と呼ばれていましたが、最近はZ世代と呼ばれる若年層との世代間格差に吃驚することが多くなりました(私も定義上Z世代の一部ではあるのですが)。世代間の価値観の差分は、そのままコミュニケーション上の軋轢に繋がり、そして権力の非対称性によって容易にハラスメントへと転化します

年長者の”時代外れな発言”がギャグで済まされないのは、そこに社会的な序列が存在しているからであって、序列の下位にいるもの(=若者)に沈黙すること、恭順することを強制するからです。

こうした圧迫的な関係は、年齢だけを軸にして生じるものではありません。性別のちがい、身体障がいの有無、性的嗜好、職業、出身、経済状況など、個人のあらゆる要素に基づき、常に相対的なものとして非対称的な関係は現れます

AさんはBさんに性別を基にハラスメントを受けているが、BさんはCさんに対して、出身を基にいわれのない誹謗中傷を行っている、ということは全くあり得ることでしょう。

要するに、ハラスメントについて考えるとき重要なことは、あなたが自分自身についてどう思っているかという自己認識もあなたがある他者との関係において弱い立場に置かれているという事実も、ハラスメントの責任からあなたを解放することができないということです

あなたがハラスメントをしていると思われれば、あなたはハラスメントをしているのです。あなたに「ハラスメントをしたことがない」とは言わせません。


2. 加害者臨床の現場から

2-1. ハラスメントを反省することが難しい

ところで、ハラスメントの加害者になった人は、自身の行いを振り返ってどう感じるものなのでしょうか。臨床心理学者の中村正の論文から、加害者の典型的な反応である”弁解”・”否認”に関する分析を引いてみます。

①相手との関係において「操作性の強さ」への無自覚さあるいは当然視がある。
②ハラスメントにいたったのは理由があるという。相手に問題があるからだという。「他罰性と責任転化」である。
③非対称な関係性における「服従化の心理の活用」がある。
④相手に対して「読心性(マインドリーディング)の喚起」を期待する
⑤「歪んだ愛着」が形成されやすいこと(あいつは俺がいなければやっていけないと思う等)。
⑥人格を攻撃する。「価値剝奪的で地位降格的な関わり」がある(モラルハラスメント的である)。
⑦「被害者の自責の念を強化」させるようなコントロールがあること
等である。
~(中略)~
ハラスメント の行動面での事実は比較的認めやすいが、次のハードルである加害性の認知や主観的な内省意識 はそうではない。先のような「否認」があらわれるからだ。

中村正 (2019) ”ハラスメント加害者の更生はいかにして可能か

要するに、”ハラスメントに類する行為を行ったという外形的な事実は認めることができても、被害者との関係に対する認知が歪んでいる場合が多いから、自分が行ったことが被害者を傷つける行為であったと本人が認めることがとても難しい”、ということを言っています。

実際、コミュニケーションは本人たちの間でしか伝わらない微妙なニュアンスの上で成り立っていることも多いわけで、それが単に”砕けた会話”なのか、”執拗な誹謗中傷”なのかを判別することは、他人には難しいわけです。それは、先の厚労省の調査結果の中で、ハラスメントの事実を調査するのが困難であると回答する企業が多いことからも読み取れます。


2-2. ”内省”より効果的なのは”行動”への制限

ここからは私の個人的な見解ですが、企業におけるハラスメントの予防原則は個人に内省を促すような繊細なものでなく、シンプルな行動制限が適していると思っています。それは、常に個人間のコミュニケーションや関係性に関連して発生するというハラスメント行為の性質が、全ての人間に対して一律に適応しうる倫理的なルールを設定することを難しくしているからです。

自分のコミュニケーションの暴力的な部分を常に内省して削っていくことを促すよりは、そうした暴力に結び付きやすいコミュニケーションを先んじて抑制することの方が、結果的には徹底しやすく効果が出やすいと考えます。

急いで付け加えれば、前者も各人が当然備え持つべき倫理的な態度です。ただ、そもそも自分の言葉や行動が刃になって人を傷つけているという想像力を持つことはとても難しいわけで、そうした行動の芽を先んじて摘んでおくことは、”気づきを促す”という内省的な取り組みよりも、効果的であるように感じます

行動経済学の言葉で言えば、人々の意志にもインセンティブにも干渉せずに、選択のアーキテクチャ(前提となる条件)を変えることが効果的なんじゃないか、という感覚が私にはあります。

とっても長くなりましたが、ここまでが前置きで、じゃあ具体的にどうしたらいいんだ、ということをこの後で書いていきます。

今回は、言語学の知見を援用して、日ごろのコミュニケーションの中で簡単に改善することができるポイントをお伝えします。なお、本当は2〜3個書きたかったのですが、書いているうちにエントリがとっても長くなってしまったので、今回は1つに絞って、残りは次回以降に譲ります。


3. ”AはB”という形で信念を述べるのはやめよう

3.1 総称文とは何か

女の子はお砂糖とスパイスとでできてる

椎名林檎 ”女の子は誰でも”

言語学的には、”AはB”という形式の文は総称文 "generic"と呼ばれます。わかりやすいもので言うと、”カテキンはすごい” ”きゅうりはすごい”みたいな文が総称文に分類されます。

総称文は、一般的な事実(のように思われること)を叙述するときに、どのような言語でもまぁまぁ普遍的に存在する記述様式です。英語でいうと、"Birds lay eggs." みたいな文ですし、日本語で言うと、"正三角形は三辺の長さが等しい"みたいな文にあたります。前者は、鳥が卵生の動物であることから論理的に導かれ、後者は正三角形の定義の一つから導かれます。このように、ある論理体系の中で当然に成立している帰結を導く際に利用されるのが総称文であるわけです。


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3.2 本質主義と総称文

総称文は、個人の本質主義的な信念を込めて利用されることが多いことがわかっています。本質主義とは、ある特定の属性に本質的に還元される特性が存在する、と考える立場のことです。例えば、次の二文を比べてみましょう。

母親は、子供に手料理を作ってあげたいものだ。
父親は、外で働いて稼ぐのが仕事だ。

このように発話する人の頭の中を少し想像してみましょう。まず、自分の中でこうあるものだとされている”お母さん”像と”お父さん”像があるわけです。そして、そこに結びつけられるいくつかの性質があるのでしょう。

例えば、お母さんは家にいて子供と父親の帰りを待っているものだとか、父親は汗水垂らして働いてお金を稼いで帰ってくる生き物だ、とか。そのような特性の一つが引用され、述語部分に置かれているわけです。

総称文は、断定的・高圧的な”〜べき調”、”〜しろ調”のハラスメント的な文とは違って、批判・否定しにくいものです。主張を明確に押し付けるわけではなく、客観的な事実の叙述のような形で発することが可能だからです。そこに罠があります。あたかも、”三角形の三辺が等しい”ということをいう数学的な定義と同じテイストで、”母親は、子供に手料理を作ってあげたいものだ”という極めて個人的・本質的な信念を発することができるわけです。

3.3 何がいけないのか

こうした発言は、発話者と受け手の論理世界のズレが明確である場合、しかも発話者の論理世界が一般的な倫理規範に反している場合、受け手に非常に大きなストレスを与えます

発話者は仮に上記のような発言の不用意さを指摘されたとして、”別に自分の個人的な信念であり他人に押し付けているわけではない”とか、”こうすべきとは言ってない”とか、”現に自分の母親や父親はそうだった”とか言い逃れをすることができるわけです。

要は、自分の本質主義的な価値観を逃げ道を保ちながら他人に押し付けたいという潜在的な欲求が、こういう形の文を作ってしまうのです。それが見えすくので、受け手も不愉快に感じるわけです。

あなたが、いや、自分はいつもこういう風に話しているけれど、何も指摘されたことはない!と感じている場合、総称文が反論を許さない発話形態であることに不注意です。

総称文は一般的な一般的な事実(のように思われること)を叙述するときに、どのような言語でもまぁまぁ普遍的に存在する記述様式であると述べました。このパッケージで披露された命題は、受け手に対して、自分の言っていることは世の中に当然に受け入れられている前提である、というあなたの態度に恭順することを強要します。あなたと受け手の間に、上下関係が存在するのであれば尚更です。

3.4 では、どうすれば良いのか

では、どうすれば良いのか。私からの提案は、こんな粗暴な形で自分の信念をひけらかさずに、きちんと論理的に精緻な形で、個人の意見として提示すれば良いのではないでしょうか。

自分の観察では、これまで出会った母親のうち●割程度が、子供に手料理を作ってあげたいと言っていた。僕はこのことから、母親は一般的に自分の子供に手料理を作ってあげたいものだと信じている。

自分の父親は、小さいときに一生懸命働いて自分の生活を助けてくれた。その姿に影響されて、僕は父親は外で働いてお金を稼いで帰ってくるのが義務だと考えるようになった。

どうでしょうか。少なくとも、このようなことを上司から言われたとして、受け手は意見を発する余地が残されています。

自分の観察や経験に基づく信念として総称文で指示されていた内容が披瀝されれば、”〇〇さんの場合はそうだったんですね。でも私は…”と会話を続けられます。これなら、あなたの信念を巡るどうしようもない押し付けがましさが低減して、いい感じなのではないでしょうか。


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