命短し襷は冗長

ステロ環境では襷は焼け石に水です。
そんなこともないですかそうですか

皆さま、如何お過ごしでしょうか
こういった堅い挨拶は昨今では邪魔だと言われて久しい気もしますが、
結局日本人は型を大切にする風潮が蔓延していると思います。
それは、過去へのリスペクトも多分に含んでいると主張したがると思うのですが、その話はまた今度にしましょう。(多分しない)

今日は現代の闇の一つである、大量消費社会について書いていきたく思います。
そう、僕の前提として大量消費社会は闇であり、
人の病みを加速させたと置いておきたいのです。

根本的に今はコンテンツが短くなければ売れない時代になっています。
コンテンツで溢れすぎて、"それを知ること"に時間がかかることが分かると、
「で?結局どういうこと?」と答えを急かす人間が増えました。
悲しいかな、自分もそれに当てはまりつつあります。
アニメを追ったりノベルゲームをやったりと、高校生あたりの頃は没頭していたはずなのに、
いつのまにかあらすじを読んでwikiを読んで分かったような気になり満足する体になっていました。
こういうことを言うと、コア層の友人らは怒ると思います。
でも現実、社会がそうなっています。
だって、コアな彼らは富をもたらせてくれるわけではないんですから。

詳しすぎるコア層は敬意は評されるものの、
実際それに当てた時間割合を見ると全く儲かっていません。
もちろん儲かることだけが全てではないですが、
僕らは明日を生きるために食べて行かなくちゃいけません。
それも、2年後すら見通せないほど不安定な経済状況です。
円安ドル高は今後も加速していきます。
去年までは1ドル108円だったのに、今年に入って118円、
つい先日行われたFOMCでは利上げが示唆されました。
その結果今では119円になり、数年内に125円に上がる見通しと言われています。
これがどれほど恐ろしいことか分かるでしょうか?
前回の記事でゆるーく触れました。
経済知識層ではないので、その体制下での一般市民の行動心理しか推察出来ませんが…。

昨日まで思い描いてたvisionは一瞬でゴミとして捨てられる時代です。
人の心を狭くする要因としてはこれ以上なく十分な根拠でしょう。
そもそも、表立って活動している本人たちが市場を読めないと言っているのです。
だからこそ、こんなにもベンチャー企業精神で溢れてしまうのかもしれませんが…。(僕のいうベンチャー企業精神とは、体育会系に近いかもしれません)

長編って、そもそもそれが好きじゃないと食指が動きません。
書店に行って、ジャケ買いする時代は終わりました。
ジャンルが細分化され、似たような作品が出回りすぎた結果、
それそのものが好きになる素質がないと、開くことすらなくなりました。
これは何もアニメやゲーム漫画ラノベに限った話ではなく、
あらゆる娯楽コンテンツを通り越して、
政治経済仕事恋愛にまで言えるようになったのかもしれません。
今皆さんが見ているジャンルはなんでしょう?
10代後半から20代にかけて好きになったもの、入れ込んだものの延長線にあるのではないでしょうか?
全く新しいジャンルに踏み込める勇気があるでしょうか?
(だからこそ、若いうちから色々なものに触れろと言うのでしょうね)

最近、youtube shortは奥深い世界だと感じます(遅)
tiktokを得意の逆張りで全く触らなかったせいなのですが、
しかし動画編集者として自分で編集することによって、
shortの世界に触れるようになりました。こういうきっかけがなかったら今でも毛嫌いしていたかもしれません。

基本的に動画は長編ばかり作っていましたが、やはり根本の数字を伸ばそうと思えば短編を手掛ける必要が出てきます。
ちょっと脱線しますが、youtubeとtiktokの大きな違いといえば、
Youtubeは動画や配信を仕事にしたい人が集まり、tiktokはtiktokerになりたい人が集まるのだそうです。
つまり、youtubeを主戦場にする人はぶっちゃけどこでもいい”風来の民”です。
一番シェア率があって、他と比べたら広告単価が高くて、Googleという企業に対しての信頼性が厚い。Googleというマクロ企業がこの先なくなることはないだろうという絶対の信頼が、youtubeに人を集めるきっかけとなっていることは否定しようがないでしょう。

反対にtiktokは儲かりません。厳密には、お金を稼ぐためには、tiktok側から案件を振られる以外にありません。もちろん、tiktokを一時的な知名度上げに利用したい人は大勢います。いつまでも「tiktokでバズったあの○○」という肩書で多方面で売り込んでる人は多いです。いずれ著書もそういったもので溢れかえるでしょう。「tiktokで話題のあの○○の料理レシピ!」みたいな
もうありますか、そうですか
ただ、tiktokを主戦場とする人たちの行動原理は、tiktok内で有名になりたい!ことが大半なんだとか。
tiktokで有名になってそのあとどうしたいかなどのvisionは基本的に持ち合わせていないくらいの年若い層がメインターゲットです。
つまり、youtubeはコンテンツに依存していて、
tiktokは媒体に依存しているとも言い換えることが出来るでしょう。

ただ、そんなコンテンツ至上主義のYoutuberたちも、結局のところ最終的なvisionを考えると自分自身が売れたいに決まっています。
アカウントが有名になるというよりも、アカウントの運営者である○○として有名になることがtrueエンドでしょう。
分かりやすい例をあげれば、2017-2018に爆発的に増えたシャドウバース実況者界隈でしょう。
あの頃は間違いなく1大ムーブメントでした。
大会優勝者が、顔も合わせたことがないグラビアアイドル相手にTwitter上でいきなりマウントを取り出すくらいには、覇権と呼ばれたコンテンツでした。

高校生の頃、母の実家にある叔父の本棚から『死者の奢り』という本を何気なく読んで、衝撃を覚えました。
いや、当時はあまりちゃんと理解出来ていなかったのかもしれません。
この話のポイントをかいつまむと、
戦後の貧しい時代、主人公は医学部学生だが、生計のためにアルバイトをする。
そのアルバイトとは、検体用に運ばれてくる死体をタワシやらで洗ったり、アルコールの水槽に漬けたりする仕事。
物のように運ばれ台の上に投げ出される裸の死体を見て、最初こそ少女の裸体に情念を覚えるも、次第に彼らは人ではなく”石(物体)”であることを悟る。
この仕事の先輩に聞くと、このバイトは大体がすぐに辞めていくという。
何故お前は辞めないのかと聞かれたとき、主人公は「人は恵まれているから悩む時間が与えられている。こんな仕事でもしないと大学にも通えない僕は病んでいる暇などない」と問答する。

大江健三郎 1935-

ざっとこんな感じです。内容は暗くジメジメとした読後感があります。
このあと主人公は、同僚の女学生が妊娠していることに気付いたり、
彼女自身は堕ろそうと考えているところで、この死体たちを見て産む決意をしたりと
作者のテーマはもっと読み深めたところにありますが、長くなるので割愛します。

大量消費社会に、死体を扱う彼らの姿を重ねます。
死んでしまったら、モノとして雑に扱われます。
あれだけ流行っていたムーブメントを一つのテーマとしてネタにするのです。その陰にはどれほどの潜在的涙があるのでしょうか。
消費された人間は、モノなのでしょうか?
今もなお、病みながらも生き続けなければならないのです。

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