思春期の痛み 映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」

うまく言葉を話せない、「吃音」という症状が世の中にはある。私の近親にも過去に軽く症状が出ていた人がいて、少し勉強をしてみたことがある。誤解を恐れずに言えば、吃音は一種の障がいである。目が見えないとか、音が聞こえないといった障害は、外から見てわかりやすいし、不都合さも容易に想像できるが、吃音の厄介さは、誤解のされやすさにあるのではないだろうか。会話の中で、適切な言葉が出て来ないという失敗は、世の中のほぼすべての人が経験していると思う。一言目が出なくて、「えー、」「あー、」という余計な言葉からはじめてしまう人もたくさんいるだろう。話すという行為は、かように身近で難しい。それゆえに、多くの人が、何かしらの壁を感じ、それを乗り越える経験をしてきたため、親切心から自分の経験を語ってしまう。しかし、吃音はそれらとは全く次元の異なる症状であり、身近に見えるがゆえに、ある程度勉強しないとアドバイスは的外れになり、ありがた迷惑となりがちだ。

さて、本作は自身も吃音を持ち、苦しんできた漫画家、押見修造さんの漫画を映画化したものである。吃音を持つ志乃が高校入学という人生の転機に差し掛かる中、一見クールに見えるが、とあるコンプレックスを持つ加代、一見お調子者に見えるが、その実空気を読めずに悩んでいる菊池と同じクラスになることから始まる。

押見さんには吃音のことをわかってもらいたい、という思いはあっただろうが、この映画の真の主題は思春期のコンプレックスなのだろう。大人と子どもの境目にあり、人との距離感を掴むことに慣れておらず失敗する。自分だけが悩みを持っており、周りがキラキラして見えて羨ましい。誰しもが経験する痛みだろう。思春期を経験した人なら、志乃、加代、菊池、誰かに自分を投影できるのではないか。吃音を理解したい人はもちろん、昔を思い出して甘酸っぱい気持ちになりたい人にはぜひ見てほしい。

さて、思春期のころ、「君はそのままでいいんだ」というようなアドバイスを贈る大人がたくさんいた。苦しんでいるのに何を簡単に、と思っていたが、大人になって思春期の人にアドバイスを贈るとすれば、同じようなアドバイスになるのだろうな。私も思春期には思い出すだけで赤面するような失敗を山程した。時には悪気なく人を傷つけたこともあった。しかし、こうした失敗をせぬまま大人になっていたら、取り返しのつかないことになっていたかもしれないと思い、ゾッとする。「君はそのままでいいんだ」というのは、自分のままで行動し、数え切れないくらい失敗するとよい。それがあなたを形作るし、今はそれが許されるんだから、ということなのだろう。うーん、歳をとったものだ。

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