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終わりのしるし  第Ⅲ部 ― 果たして世の終わりだろうか?

「これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」(マタイによる福音書24章34節)

 マタイ24章のみ言葉の中に、ひとつ理解しにくい箇所があります。これまで長年の間、多くの人々が理解しようと研究してきました。それは、34節にある「この時代」とはいつの時代をさしているのかということです。イエス様がこの言葉を話された時から再臨の時までを、ひとつの時代と考えるのは難しいことです。2000年の間、生き続けた人はいないからです。それでは、「この時代」とはどの時代を言っているのでしょうか?

 イエス様は、ご自分が再び来られる時や、世の終わりの前兆として起きる出来事を、細かく語られました。それは、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章に記録されています。マタイ24章を調べる前に、このみ言葉を語られた背景を注意深く探ってみましょう。マタイ23章で、イエス様は当時のユダヤ教会に向かって、その偽善をあばく厳しい言葉を語られました。その教会は、本来は神様の教会でした。すなわち、その当時で唯一、真の神様を礼拝する教会でした。彼らはメシヤの初臨に思いを寄せ、戒めを守り、預言者を置き、契約を所有しながら、聖所制度を含め、真理のあらゆる知識を保ってきました。それにもかかわらず、彼らは目の前のメシヤに気づきませんでした。それゆえイエス様は、深く嘆息しながら、宗教、政治、社会のあらゆる分野にわたって、「わざわいである・・・」(マタイによる福音書23章)と言われたのでした。
イエス様は、“めんどりのように、イスラエルの子らを集めようとしたが、彼らはそれに応じなかった”と言われました。この言葉を聞いた弟子たちは、その当時すでに、ユダヤ教会から追い出された状態でしたが、神様の教会が神様から捨てられてしまうという事態については、理解できませんでした。彼らは、ユダヤ教会の恵みの期間が間もなく終わり、神様の選びの民としての特権と祝福が失われるという事実を、想像する事さえ出来ませんでした。

ここで現代の教会は重要な教訓を学ばなければなりません。

 イエス様がオリブ山におられた時、弟子たちが近寄ってきて、イエス様の注意を美しい宮に向けました。エルサレムの宮は白い大理石で覆われ、特に、宮の前の五つの柱は白い象牙で覆われていました。この象牙には、ぶどうの木の模様が彫りつけられていて、それはそれは美しいものでした。弟子たちは言いました。「ご覧ください、主よ、これこそまさに、神様がお選びになった、世界にたったひとつしかない教会の姿です。ため息をつかれる理由など無いではありませんか?すべての者がその雄壮な姿に、感嘆しているではありませんか?・・・」。マタイ24章1,2節を読んで見ましょう。「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。そこで、イエスは彼らにむかって言われた、『あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう』」。
イエス様が預言された通りに、紀元70年、ローマの将軍ティトウスの軍隊によって、エルサレムの神殿は、破壊され、石組みのすべてがバラバラにくずされてしまいました。ティトウス将軍は、エルサレムの宮を破壊しない様に厳重に命じていましたが、兵士によって神殿内に火が放たれ、宮の壁に貼ってあった金が熱で溶け出し、石組みの間に流れ出ました。その流れた金を採ろうとして、「他の石の上に残ることも」ないほどに、石組みがくずされてしまったのです。そのように、イエス様の預言はその通りに成就しました。
しかし、弟子たちにとって、神様の宮であるエルサレム神殿の崩壊は、まさしくこの世の終わりを意味するものであったために、イエス様のこの発言は、衝撃的なものでした。

マタイ24章3節を見ると「いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終わりには、どんな前兆がありますか」と弟子たちは尋ねます。そこでイエス様は答えて言われました。「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちにききんが起り、また地震があるであろう。しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。そのとき、多くの人がつまずき、また互いに裏切り、憎み合うであろう。また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:4~14)

 弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを、同一のものと考えました。なぜなら、神様がエルサレムの神殿を滅亡に渡されるなど、夢にも考えられなかったからです。それゆえ彼らは、エルサレム神殿の滅亡とは、世の終りのことだと考えたのです。

 弟子たちの質問に対するイエス様の答えの焦点は何でしょうか。もちろんイエス様の預言は、当時の弟子たちに対して第1義的に適用しなければなりません。しかし同時に、イエス様が再びお出でになる時代に生きている、私たちにまで焦点をあてて見る必要があります。

 それでは、マタイ24章14節の「そしてこの御国の福音は、すべての民に対して証をするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」はいつに焦点をあてて語られた言葉でしょうか?今の時代でしょうか?それとも、その当時でしょうか?第1義的には、その当時です。御国の福音が全世界へ宣べ伝えられるという言葉は、初代教会の使徒たちに語られた言葉でした。エルサレムに滅びが来る前に、まず、「この御国の福音は、・・・全世界に宣べ伝えられる」ようになるのです。

マタイ24:14~28の出来事は、弟子たちの時代に起きた事であって、だからこそ、「これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びる事がない」と言われたのでした。そのように見ると、マタイ24:29~35の後半部は現代の私たちへ言われた言葉として見るのは妥当だといえます。イエス様がこの言葉を語られた時、どの時代を指して言われたのかを、文脈的に見れば、直接弟子たちの世代へ語られたことに間違いありません。ひとつの時代を約40~50年として考える時、イエス様が言われたAD31年からエルサレムの都がローマの軍隊によって滅ぼされたAD70年までを一時代として言われたと言えます。それゆえ、この時代が過ぎ去るまでに、これらのあらゆるしるしが、ことごとく起ると言われたのです。

 それでは、弟子たちが過ごしたその当時の諸事件を注意して調べて見ましょう。

1、 偽キリストの惑わし:AD31年~70年の期間、エルサレムが滅びるまで大勢の偽メシヤが出て、自分がキリストだと言って多くの人たちを惑わしました。

2、 戦争と戦争のうわさ:ローマ皇帝であるシーザーたちを暗殺しようとの陰謀、ローマがユダヤの地へ攻め込むなど戦争のうわさと、各国々の革命と戦争のうわさが広がっていました。

3、 各種の疫病:疫病とは、伝染病(癒されることの出来ない病気などを言う)などですが、その当時も疫病は多くありました。

4、 地震とききん:AD44年にあったユダヤ地方の大きなききん。40年のクレテ島の地震、50年の大ローマ地震、60年のパンフリヤの地震、66年のフルギヤの地震など。

5、 迫害と殉教:その当時、キリスト者たちへの大きな迫害が起こり、特にヤコブとステパノを始め大勢のキリスト者たちが殉教しました。

 イエス様はこれらの全てが、彼らの世代に起る事であると言われました。イエス様を信じたその当時のキリスト者たちは、宮の建物が崩壊する事をあらかじめ知っていました。それゆえ、これが世の終わりではなく、苦しみの始まりである事も知っていました。ところが当時、偽りの預言者たちがはびこって、今まさに、エルサレムへ滅びが臨もうとしているのに、平安で安全であるかのような説教をしていました。聖殿は美しく、指導者たちもいましたが、ユダヤ教会の中での不法、つまり、罪悪が盛んになった結果として、愛は冷めていました。

 ところで、ひとつ大事なしるしについて理解すべきです。それは、果たして、その当時の一つの時代で、御国の福音を全世界へ宣べ伝えることができたのか、ということです。しかし、驚くべき事に、『コロサイ人への手紙』1章23節に、「この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって」というみ言葉を発見できます。これは、AD60年ごろに、パウロが書き記したみ言葉です。福音はその当時、五旬節の聖霊を受けた人たちによって、当時においてさえ全世界へ伝えられていました。これは、最後の時代にも適用されますが、しかし一義的には使徒教会時代に、まず適用されたのです。

 また、「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(マタイ24:15)、このみ言葉も、成就しました。「エルサレムが軍隊に包囲されるのを見たならば・・・ユダヤにいる人々は山へ逃げよ」(ルカ21:20)と語られたイエス様のみ言葉を覚えていたキリスト者たちは、その言葉に従って山へ逃れたので、エルサレムの都が滅亡した時、一人の死者も出ませんでした。
AD70年、ローマ軍がエルサレムに第1次攻撃をかけてきましたが、ユダヤ人たちの頑強な抵抗によりしばらく後退したのです。その間に、イエス様のみ言葉を覚えていた人々は皆、山へ逃げて滅びを免れる事が出来ました。それゆえ、「この時代」の人たちが生きている間に、これらの預言は全て成就されたのです。
それでは最後の時代、「女の残りの子ら」(黙示録12章17節)の教会である時代に、つまり、私たちが生きている時代にも、これらの預言は再び適用され、また、成就されるのでしょうか?はい、その通りです。

 イエス様が語られた再臨の徴兆の中で、最も強力なものは何でしょうか?それは、“全世界へ御国の福音が宣べ伝えられる”ということです。「そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:14)。福音が、全世界に宣べ伝えられる時、ついに、世の終わりが来るのです。マタイ24章の最も重要なポイントは、まさしくここにあります。
ところで、終わりの時代を生きているキリスト者たちも、初代教会の時のように、上から降り注がれる聖霊の満たしを受けて初めて、この福音を全世界へ宣べ伝える働きに、本格的に取り組むようになることでしょう。
福音を速やかに伝えるために、執事ピリポを一瞬のうちに別の場所へ移されたように(使徒行伝8:39)、パウロに幻を通してある所へ行って真理を伝えなさいと、場所を指示されたように(使徒行伝16:9、10)、主は終わりの時代においても、神様の御霊の力としるしを用いて、最後の福音の働きを速やかに終わらせられるに違いありません。
ですから、御国の福音を全世界へ宣べ伝えることは、イエス・キリストの再臨のしるしちょう兆候として語られたものであって、私たちの力で成就させるべき目標として語られたのではありません。現在、毎日この世に生まれる新生児の数だけで何十万名もあります。御国の福音を全世界のあらゆる人々に宣べつたえる働きは、人間的な見地からすると不可能なことです。これは、ひたすら、御霊の力によって可能なものなのです。
イエス様は私たちに、福音を伝えなさいと言われましたが、これは後の雨、聖霊を受ける経験によって可能になることです。私たちが後の雨、聖霊を受ける時、全世界に御国の福音を宣べ伝え、神様の働きを終わらせる奇跡的な御業が、もう一度この世にあらわされることでしょう。まさに、それこそが再臨の最も強力な徴兆になるものです。その働きは初代教会時代に一度あって、私たちの時代に、間もなく、もう一度、再現される事でしょう。
もちろん、大きく言うなら、御国の福音はもはや全世界へ宣べ伝えられていると言っても過言ではありません。どんな地域に住んでいても、求めさえすれば福音が聞けて、見ることが出来る時代に私たちは暮らしています。福音があらゆる所へ宣べ伝えられると言われていますが、すべての人が悔い改めるようになるとは言われませんでした。

 「しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない」(マタイ24:29~34)
これらの徴兆が、この時代が滅びる前に、ことごとく起こると語られました。マタイ24:4~28までのみ言葉は、その言葉を直接聞いた、その世代が過ぎ去る前にすべてが成就しました。それから、29節以後の出来事では、まず、患難が起こり、日や月などの天体に異変が起きるというものでしたが、これらは、カトリック教会が至上権を握った、538年から1798年まで、1260年間の中世暗黒時代の患難の時を過ぎて起きてくるものでした(ダニエル書7章25節の預言解釈による)。
 1260年間の暗黒時代の患難の終りが近づいている1755年、ポルトガルのリスボンで、死者6万名に及ぶ大地震がありました。それはアメリカ東北部までその余波が及ぶような巨大な地震でした。それを皮切りに、1789年には、米東北部で真昼に太陽がいきなり暗くなる現象が現れ、その夜は月が血の色に変わる驚くべき現象が起きました。そして、1833年には、イエス様が預言なさった通り、星が天から落ちる珍しい光景が見られました。記録ではしし座の流星雨として知られる、歴史上最も多い流星が落ちる目覚ましい事件でした。
その当時、多くの再臨信仰を持つクリスチャンたちが、アメリカの東北部へ住んでいたので、神様はその地域の人々に、世の終わりのしるしを見せて下さったのでしょう。ある人々は、「再臨の徴兆は全世界的なものでなければならないのに、そんな局所的に起きた出来事がイエス様の預言の成就だと言えるものでしょうか?」と思うかもしれません。それでは逆にひとつ尋ねてみます。「イエス様の初臨は重大なことだったでしょうか?」。もちろんです。聖書の預言の中で最も重要な事件でした。それでは、どれくらい多くの人が、その重大な事件を目撃したでしょうか?同じように、十字架の出来事は、私たちの救いの焦点そのものというべき重要な預言の成就です。では、イエス様が十字架で釘つけられて死なれた事は、全世界が見ている中で進行したのでしょうか?いいえ、それは、とても少数の人々だけが目撃したものでした。それは、余りにも小さな地域での事件でした。そのように、神様の出来事は、たとえそれを見る人が少なくても、信じる心貧しい人たちが居るところで目撃されるのです。そういうわけで、太陽、月、星のしるしは、その当時クリスチャンたちが最も多く住みついていたアメリカ東北部で起きたのです。

 マタイ24章29節を見ると、太陽、月、星に対する預言の次に「天体は揺り動かされる」との預言があります。これは神様の御声によって、天体が揺り動かされる事を言いますが、ちょうどイエス様が再び来られる前、天の聖所におけるとりなしの働きが終わり、「事はすでに成った」と言われる時(黙示録16:17)、天体が揺れるようになる事を語られたのであります。
聖書は次の様に宣布しています。「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい」(ペテロの第二3:10~14)。
「第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、『事はすでに成った』と言った。すると、いなずまと、もろもろの声と、雷とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。・・・島々はみな逃げ去り、山々は見えなくなった。また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。その災害が、非常に大きかったからである」(黙示録16:17~18、20、21)

 ローマ軍隊がエルサレムを包囲する事は、エルサレムの都が滅亡するしるしでした。この預言は、終末時代において、ローマ教皇の勢力が、天の父なる神様の、真の教会を包囲してくることの象徴と見ることができます。イエス様が語られたマタイ24章の前半部の預言は、イエス様のみ言葉を聞いていた人たちの世代である、約40年間にすべて成就しました。それゆえ、最後の時代にも同じく、ローマの軍隊がエルサレムを包囲するというしるしが成就する時、すなわち、ローマ教皇権が神様の教会を包囲する世代に、世は滅亡し終りに至るのです。今現在、教会合同運動を通して、プロテスタント教会が再びローマ教会の手中に戻りつつあります。特に、教皇権の迫害を避けて逃げた地であるアメリカのプロテスタント教会が、今では、ローマ教会と密接に連合して、一緒に動いている姿を、すでに私たちは目にしているではありませんか!

「わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、大声で言った」(黙示録14:6)。聖書はこの終りの世代に、再び世界のあらゆる所に宣べ伝えるべき御国の福音があると宣言しています。それは、「永遠の福音」と名称が与えられました。初めから終りまで、永遠に変わらない福音であり、永遠をもたらす福音という意味です。
今日、教会の中には、偽福音が入り込んできて、大きな混乱をもたらしている事に気付いておあられますか?私たちは当然、聖書が語る真の福音を、世に伝える使命を持つべきです。私たちは、信じる者を戒めに服従させる力ある福音、信じる者を聖に変える真の福音を伝えるべきです。この働きは私たちの力では不可能なことです。ただ、上から臨む聖霊の注ぎを経験する時にのみ可能な事になります。昔、初代教会時代にあった五旬節(ペンテコステ)のようにです。
多くの教会の中で、勝手気ままに勢力を振るう偽りの聖霊運動のような、感情的な経験ではなく、天の父なる神様が御力を表され、真の聖霊の働きを通して、短時間のうちに福音の働きは完結することでしょう。その時、この地に住むすべての人は、真理の光を受けるようになり、救いを選ぶか、滅びを選ぶか、自分自身の運命を決定させることになるでしょう。そのような神様の御業を直接目撃できる「この時代」(マタイ24:34)、すなわち、私たちの時代に、これらのあらゆる預言はすべて成就していくことになるのです。私たちはまさに、その時代(Generation)に生きているのです。実に驚くべき、そして、感謝すべき時代に生きていることでしょう!


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