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第7部:最後の時代のための霊的な準備

第7部:最後の時代のための霊的な準備

これまでの学びでは、アメリカの経済的危機を契機として、管理統制システムが生じる可能性と、経済危機によって到来するかもしれない、獣の刻印の艱難の可能性について、注意深く見てきました。最近では、インターネットやニュースなどを通して、私たちはたやすく、今後アメリカ国内での、経済暴落による内戦や暴動などが起きる可能性が高いことを知ることができます。クリスチャンである私たちは、これらの記事に接する時、こうした事が、獣の刻印を強要する宗教的な圧迫や迫害をもたらす可能性があることを感じることができます。
周りに起こるこのようは事件を見ると、私クリスチャンは、今何をしなければならないかを考えさせられます。私たちにとって、最も必要なことは、終わりの日のための準備です。次々に成就していく預言を見ながら、間もなく来る艱難と、近づきつつあるイエス様の再臨に備えるために、まず、霊的に準備していく方法について学びましょう。

1) 悔い改めと清めをもたらす聖霊の働き

最後の時が迫っている現在、イエス様の再臨前の、艱難と危機のために最も必要な準備は、この世と世にあるものを切り捨てることです。この世で認められたり、お金持ちになったり、安定した生活をする事を放棄する経験をした者だけが、最後の艱難の危機を通過できるようになるでしょう。最後の時は、私たちが持っていた物は無用になり、私たちを救うのに何の役にも立たない、ということが分かるようになるでしょう。私たちは目の前で、自分の財産が何の価値もなくなることを目撃するようになるでしょう。私たちがあれほど愛着していたものも、一夜にして消え去ることを目にすることでしょう。この世を愛することがどれほど愚かであるか、財産や物に頼る事が、どんなにむなしいことであるかを、早く悟った人は幸いです。神様の聖霊は、この世に属する物や、財産を放棄するように私たちの心に呼びかけておられるのです。

イエス様の再臨を待ち望み、準備する人々が、もう一つしなければならない重要な働きは、魂の清めです。私たちは物質に対する欲だけではなく、私たちの心に秘めている、すべての罪悪を捨てて、悔い改める経験を持たなければなりません。私たちは、私たちの心にある、おごりや自己中心、妬み、憎む心、赦せない精神、上に立って人を支配したがる心、この世から認められたい野望、世の快楽を愛する心などを捨てて、魂の聖所を清めなければなりません。聖書の、最後の預言が成就されつつあるこの時、私たちは魂の清めのために、悔い改めの霊を求めなければなりません。
真心からの悔い改めとは、罪に対して深い苦痛と悲しみを持ち、その罪を捨てて心を翻すことを意味します。私たちは、罪を、非常に苦しい思いで認識するまでは、その罪を捨てようとはしません。そして、私たちがその罪から離れない限り、私たちの生涯において、真の変化は決してあり得ません。口先だけで言うことではなく、実際にすべての罪を捨てて、神様の戒めに服従する信仰の実が、生活や品性に現れてはじめて、真の悔い改めと真心からの回心をしたと言えます。
このような、真心からの悔い改めは、人間が自分の力でできるものではありません。多くの人は、神様が自分のために何をして下さるかを理解する前に、雰囲気や感情、あるいは自分の決心によって、生涯を変えようと非常に努力し、そのようなものを悔い改めの経験だと思いやすいのです。しかし、真の悔い改めがなし遂げられるためには、私たちは聖霊の導きを受けて、イエス・キリストの十字架のもとに出なければなりません。そしてそこで、私たちの救い主イエス様が、私たちを救うために何をされたかを悟らなければなりません。十字架のもとで、神様の無限の愛に接する時に、罪を憎んで義を愛するようになります。

神様に真に出会うためには、私たちの内の古き人、古き本性、血肉によって生まれたもの、遺伝的な傾向、古い習慣などが、放棄されなければなりません。新しく生まれた者だけが、御国へ入れるのであって、御霊によって新たな生命を得た者だけが、神性にあずかる者となり、そのような者だけが、神様と共に生きられる準備を整えた者です。終わりが迫っているこの時、神様にお会いしたいという望みをいだいて備える者の心には、真の悔い改めの経験と、新しく生まれる経験にもとづく、魂の清めの働きが行われなければなりません。すべてを捨てる経験、そうして魂の清めが行われた者たちだけが、後の雨の聖霊を受け、それから最後の艱難を通過できるようになるでしょう。

*偶像を捨てること

神様を信じているという人の中にも、その心には、神様以上に大切にしている偶像を持っていることがあります。イエス様の再臨を期待しながら暮らす人々であれば、自分の中に、神様よりもっと愛する偶像がないかどうか、チェックしなければなりません。私たちは、神様が何かの出来事を起こして下さるまでは、自分の中に、そのような偶像があったことなど、気づかない場合があります。
神様は、ご自分の子供たちが、心の偶像を捨てることを願っておられます。それゆえ、時々、火のような苦難が来るのをお許しになり、神様以上に愛しているものが何であるかを教えて下さいます。「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる」(マラキ3:2、3)

慈しみ深い神様は、ご自分の子供たちを、ひと足、ひと足、絶えず導きながら、心の奥に秘められていることを表し、悔改めなければならない点を教えて下さいます。その過程にあって、人によっては、一つの問題は勝利できるのですが、その次の段階で倒されてしまいます。成長して行く段階に応じて、心は試されながら徹底的に精錬されていきます。私たちは謙遜な心を持って、神様が表してくださった、心の奥の偶像を捨てなければなりません。その偶像は、私たちの子供であるかも知れませんし、それが、妻であったり、夫であったり、自分の地位や名誉、職業、組織につながっている事、安逸な生活、あるいは自分の自我かも知れません。
やがて、この地に、大きな艱難の嵐が押し寄せる時、神様の裁きが臨む時、心の偶像をすべて放棄した者だけが、そして、何よりも、この世の全てにまさって主イエス・キリストを愛し、彼を待ち望んだ者のみが、しっかりと立つことができるのです。

2) 神様に委ねる方法を学ぶ

私たちは、比較的穏やかで、信仰の自由が認められている今、神様と個人的な交わりを深め、神様の愛の確証をたくさん持つ体験をするべきです。やがて艱難が襲って来て、今まで私たちが頼ってきたすべてのものが消えうせて、何の当てもなくなったと思えるような時期に、私たちはひたすら、神様だけに委ねて、艱難を通過して行かなければなりません。個人的に神様と深い交わりの関係を持ってきた者、神様だけに頼って来た者、そうして、神様と毎瞬間共にする喜びを味わいながら過ごしてきた人のみが、あらゆる苦痛が伴う艱難の時にもかかわらず、雄々しく信仰によって忍耐し、苦しみの期間を乗り越えて行くことになるでしょう。

神様は、これから起こる試練と困難に対して、私たちが何の準備もなく放置しておかれるのではありません。神様は、最後の時に起こるべきことを、先に預言して表して下さることによって、ご自分の聖徒たちが、迫害の勢力と、艱難の暴風雨に対抗して、しっかりと立つことができるように、準備させられます。神様は、これから起こる全ての出来事に対して、前もって語り、理解させて下さり、その上、艱難と試練が襲う時、落胆したり不安を感じたりする必要がないことも語って下さいました。今現在、私たちが真の救い主なるイエス様を見上げる喜びを味わいながら過ごしていれば、艱難の時にも、今と同じような喜びの中で、望みと平安を味わいながら耐え忍ぶことができるのです。


主の再臨を、生きてお迎えする人たちは、神様の救いのみ手を頼って生きる、練習が必要とされます。私たちは、日々の歩みの中で、大きな苦境に直面して、困難から逃れる道が見当たらないように思われる時があります。そのような時でさえ、変わらず、救いのみ手を伸べて助けて下さる神様を体験して覚えていた者は、艱難の時も同じように、神様のみ手に頼りながら、勝利を収めることになるのです。もし、神様の聖徒たちが、信仰をもって求めるならば、もろもろの天体を秩序をもって治め、深い海底までも知り尽くされる、偉大で無限の力に満ちておられる創造主は、聖徒たちを間違いなく安全に導かれるのです。

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